小島工務店の沿革から、聞き書きする年代とその年代の小金井市内の建設案件を展望する

STEP:1「情報収集・調査」

まず、小島工務店の企業史を同社のHPより、以下に転載します。商工会からは、市内の建築関連会社ガイド小冊子を提供していただきました。

<資料01:小島工務店のHPに掲載された沿革と業種ガイド小冊子の情報>

企業の歴史に記載された内容を以下に転載します。

故郷への想い

新潟県柏崎市。田中角栄元総理大臣の生地でもあり、刈羽原子力発電所や拉致事件でご存知の方も多いとか存じます。
私、小嶋算が生まれた所は柏崎市(旧刈羽郡)市内から、車で山間部に向かって15分ほどの所。子供の頃は、冬になると1m50cmもの雪が積もり、屋外での仕事は雪堀りくらいしか無く、男達は皆、出稼ぎへ行っておりました。そんな冬が厳しいこの地でも、春になると緑と空気の美味しさや、のどかさは格別で、都会では味わえない素晴らしいものがありました。また、私の生家の東側には八石山という標高800mの山があり、冬はスキー、春は山菜採り、秋はキノコ狩りと、四季を通じ、遊びに飽きる事はありませんでした。

木との出会い

昭和19年、私は小学校1年生でした。全校朝礼では、先生の号令で「二重橋に向かって礼」と言われ、子供ながらに緊張感を持って礼をしたのを覚えています。でもなぜ、新潟の片田舎から東京に向かって礼をするのか、7歳の私には理解できませんでした。同じ地で生まれた父は、終戦間際に戦地より帰還しましたが、半農では食べて行く事が困難な時代で、山師(山の立木を買取り伐採して売る)の仕事の後に、コバ葺き職(木を薄くはぎ屋根を葺く)を兼業しておりました。 当時、冬になると実家には5〜6人の若い衆が居て、山に木を切りに出かけていました。10歳だった私もよく同行し、「算、おまえもやるか!」などと言われ、興味本位で直径1m20cmもある大木を雪の中で倒していました。大きな木が白い雪の上に、大きな音をたてて倒れて行く時の感動と、切り口から漂う木の香りには何とも言えない心地よさを感じたものでした。

やるしかない
父は戦地での過労の為か、私が12歳の時に結核を患い、長期療養を余議なくされました。
昨日までの幸せの日々が一転し、明日からの生活もままならない状態です。
長男だった私は家族6人の生活の為に、学校から帰ると、魚屋さんから仕入れた魚を「魚はいらんかね〜!」と、農家に売り歩きました。
今の感覚で言えばアルバイトですが、自分の為ではなく、家族の生活の為の仕事です。
魚を買ってもらえると、嬉しくて涙がこみ上げ、何度も「有難うございました。」とお礼を言って、魚が売れた喜びを噛みしめたものでした。
また当時、村では農地改良の真っ最中でしたので、一輪車での土運びも毎日のように手伝いました。
30cm巾の足場の上での作業は手がちぎれそうでした。私の背丈が伸びなかったのも
「この仕事が原因だったのでは?」と、今でも思っています。

中鯖石中学校3年生になったばかりの頃、母から、「可哀そうだけど高校には行かんでくれ!」と、涙ながらに言われました。
覚悟はしていましたが、それが現実となると寂しさと悔しさでやりきれない気持ちでいっぱいでした。当時、中学3年生になると、午後の授業は進学組と就職組に分けられ、進学組は進学のための授業、就職組は家畜(豚など)の世話に分けられました。
私は就職組、劣等感はありましたが、これもまた楽しかったのを記憶しています。

中学を卒業し、自分の好きな建築屋になる為、まずは大工を志ました。しかし、15歳の大工の弟子では、月に小遣い程度のお金しか貰えない時代です。やむなく土方仕事に身を置き、春、夏、秋と地元で仕事をし、冬は出稼ぎで富山県の神通川発電所工事など、お金になるところであれば何処へでも行ったものです。

建築屋への想いを貫く

出稼ぎから帰った17歳の春、大工さんへの夢を捨て切れず、地元の建築屋さん(現、第一建築合資会社)の親方のところへ相談に行き弟子入りを志願。家族の生活もあるので「小遣い銭では困ります。」と、一生懸命働く事を条件に日給で弟子にしてもらいました。

大工職の弟子にはなれたものの、学校に行けない悔しさからか、「自宅でも出来る勉強を!」と思い、通信教育の学校に入学しました。
東京の学校から問題集が送られて来るのですが、仕事を終えた夜間に解答し送り返す日々、とにかく学びたくてそんな事を続けていました。


冬になると積雪のため、仕事が無くなるのは建築業も例外ではありませんでした。私も、小嶋家の親戚筋で、千代田内幸町で建設会社の専務をしていた方を頼り、出稼ぎとしてお世話になることになりました。会社の社長は宮内庁で課長を務められた方で、宮内庁や関東財務局等の仕事が多く請け負っていました。当時24歳だった私は木造の仕事が好きでしたので、関東財務局職員寮の仕事を担当させて頂きました。柏崎地方や東北地方から大工職人を大勢集めて工事を進めていきました。現在で言う「現場監督」のような仕事です。そんな努力が認められてか、年間を通して会社の仕事をするように勧められ、以後、東京で働く事となりました。

お見合い「出会い」

私は4人兄弟の長男でしたが、当時家業は田畑を持つ半農でした。東京で働いている私が、田舎に帰って来なくなる事を心配し、父は田舎の親方に相談、私に見合いを勧めてきました。「すぐに戻りお見合いをするように」と再三の電話。私は一日休みを取り、(当時の休みは月2日間)中野坂上の下宿先をオートバイ(ホンダの250cc)で朝4時に発ちました。国道17号を北上、高崎、渋川を過ぎ月夜野まで来ると、残雪の為、路面状況が悪く、悪戦苦闘。実家に着いたのが午後の6時でした。現在でこそ新幹線を利用すれば3時間程度旅ですが、オートバイで雪の中を14時間も走り続けた長旅でした。そんな状況ですから実家の母が大変心配し、神棚に手を合わせ無事を祈っていたそうです。

お見合い相手との最初の出会いは私が25歳、彼女が21歳の時でした。彼女は当時、病院に住込みで勤務しており、なかなか時間が取れない為、親方をオートバイの後ろ乗せ、私の方から会いに向かいました。病院に到着すると彼女が出てきたのですが「先生には内緒にしているので、外でしか話はできません。」とのこと。目立たぬよう、病院の外庭まで移動すると、親方は気をきかせ「この人が伊藤清子さんだ。後は二人で話しなさい、俺は帰る」と言ってその場を後にしました。病院の外庭は暗く、院内からの明かりが、かすかに顔を照らす程度、顔もよくわからない状況でしたが話をしているうちに「この人となら一緒になっても良いな!」と感じました。一目惚れではなく、「人身惚れ」です。2回目に会った時、「こんなに美人だったのか」と、改めて惚れ直したのを覚えています。

新婚生活へ

昭和38年4月に柏崎の実家で結婚式を挙げた私は、当時、千葉の習志野市で【関東財務局公務員住宅新築工事】を施工中でしたので、杉並区成宗の住まいではなく、習志野の工事現場で寝泊まりをしていました。

結婚式の次の日に、二人で成宗から習志野の現場に行き生活をすることになりました。妻は、私が長男であった為、結婚したら実家で「父母と一緒に暮らすもの」と思っていたようですが、「東京に行ける」と大喜びしたのもつかの間、習志野の工事現場を見て「ここで暮らすのですか?」と、急に笑顔が消え、帰りたいと言いだす始末。

無理もありません、野帳場と言われる仮設住宅は、仮枠に使ったパネルだけで建てたお粗末なもの。そこに雑魚寝です。50人以上の職人が寝泊まりをしている部屋と、パネル1枚だけで仕切られた隣の部屋で新世帯を持ったのですから。夜は酒を飲み暴れ出す職人も居る中で、妻はパートさんと共に、50人分の食事を3食作ってくれました。さぞかし大変な苦労であったろうと思います。私にしてみれば25歳で、50人もの荒くれ男を束ねてきた事が、後々、大変役立つ事になったのですが…。

自分の想いと、人生のチャンス

杉並の成宗に住まいを置き、様々の所で仕事をこなしていく中、昭和39年に長男が生まれました。子供の将来を考え、安定した場所で仕事をしたいと思っていた矢先、田舎の知人から、「府中市新町に自宅を新築して欲しい」との依頼が。さらに新築しても5年間は住まないので、私に、「住まないか?」とのこと。この事がきっかけで府中に引っ越す事になりました。(この地が小嶋工務店発祥の地となる)世の中はわからないものです。私が府中に住むようになって間もなく、大変お世話になっていた会社が倒産し、私も、大勢いた職人数名を残し辞めてもらう事になりました。これが独立のきっかけで、昭和40年7月に小嶋工務店を旗揚げしました。その時は、私と妻、弟子3人の計5人でのスタート。不安も多かった独立ですが、創業する時に自分なりに誓ったことが3つあります。

そんな事を誓いながら始めた小嶋工務店も、10日が経ち、20日が経っても、仕事の依頼は無く、「何とかしなくては」と考えていた矢先、隣の家の奥様から「トイレの調子が良くないので見てください」と言われ、初めてのお仕事を依頼されました。この時は、嬉しくて涙を流しながら、皆で抱き合ったのを覚えています。あまり大きな声では言えませんが、小嶋工務店、創業第1号のお仕事は、「トイレの修理」で、頂いた代金も千円であったと、今でも思っています。 見知らぬ土地で、大勢の人が出会い、助けて頂きながら「株式会社小嶋工務店」も今年7月に創業45年目を迎える事ができました。お世話になりました方々に、心より感謝申しあげます。と同時に、会社がいくら大きくなっても、世の中が変わろうとも、創業当時の喜びや感動は、いつまでも社是として伝えて行きたいと考えております。

東京に骨を埋める覚悟で

昭和40年の春、長年病気を患っていた父も健康を取り戻したので、私は、弟に生家を守ってもらう事を託し東京を第二の故郷と決めました。と同時に親戚から、「カズエ、お前が弟に生家を頼むという事は、財産全てを譲る事だ。」と、よく言われたものです。心の中では「俺には帰るところが無くなった」と、寂しさも感じる事さえありました。しかし、この時の私には、自分の好きな道に進める方が、より大きな価値のあるものでした。

そして、私が東京で仕事を続けて行きたかった理由がもう一つあります。それは、東京では、一年中、大好きな家造りの仕事が可能だからです。私の故郷では、11月になるとみぞれや、ヒョウが降り、本雪になると6尺(約1.8m)もの雪が積もるので、4月の中旬以降にならなければ仕事ができないのです。よく、新潟の人は我慢強いなどと言われますが、約半年の間、雪に閉ざされ、仕事ができる春を辛抱強く待つ続ける気持ちが忍耐力を育んだのかも知れません。

仕事を求めて府中に引っ越して半年間、知人も友人もいない場所で、昭和40年7月1日を小嶋工務店の創業の日とし動き出しました。前文でも述べましたが、下請けは受けないので、一年近く仕事らしい仕事がありませんでした。困り果てたあげく、土地を購入し、建て売り住宅の販売を考えました。自分の預金全部と、購入予定の土地を担保に、信用金庫から土地代を借り、東大和市南街に50坪の土地を仕入れ、精魂込めて建物を造り売りに出しました。今、建売と言えば何区画もある分譲地を思い起こされるでしょうが、
一区画に一棟の建売です。「いい家を造ればすぐ売れる」と軽く考えていました。ところが一か月が過ぎ、二か月が過ぎても
お客さんが付かず、そのうちに建築費の支払いが嵩みはじめ毎日大変な思いをしました。
努力することがツキを呼ぶ
世の中は本当にわからないものです。三か月もの間、何の音沙汰も無かった
のですが、年の瀬も迫る11月25日午後、不動産屋2社が同時に2組のお客様を
案内してくれ、両方のお客様に気に入って頂きました。でも物件は一棟だけ。
「両方に断られたらどうしよう」と言う思いから、両方のお客様と話を進めてしまい、最終段階で片方のお客様を御断りするという苦渋の選択を強いられました。もちろん、お断りしたお客様からお叱りを受けたのは言うまでもありません。若さと、切羽詰まっての状況の中でしたが、大変失礼で申し訳ない事をしたと今でも思っております。やっとの思いで売れた建売のおかげで、支払いや借り入れも済ませる事ができましたが、この時以来、注文建築一筋でやろうと心に決めました。
仕事を求めて

創業2年目が過ぎた頃、創業当時トイレの修理を頼まれた隣の奥様に「自宅をお神楽(平屋の上に2階を造る)にしたいので、
小嶋さんに是非お願いしたい」と声をかけて頂きました。どんな、小さな仕事でも心を込めてやることが、何時か必ず大きな仕事に結び付くものだと痛感しました。その時の契約書は今でも大事に保管してあります。

発展へのステップ

創業三年目になる頃には「小嶋工務店は真面目で良い仕事をする」と言われるようになり、仕事も多くなってきました。自宅兼作業場の庭先では手狭になってきた為、仕事場の為の土地を探し始めました。当時、事業所は府中市にと思っておりましたが、なかなか良い土地が見つからず、小金井市なら有るとの事でしたので見に行きました。土地は道路より低く古家が有りあまり良い環境ではなかったのですが、手を掛ければ良くなると思い、此処(現在の本社所在地)に決めました。昭和43年に100坪を1600万円で購入しました。個人で買ったのでローンの支払いで暫く大変な思いを致しましたが、ちょうどその頃に次男(現弊社代表取締役)が生まれた為、事業にも熱が入り、毎朝早くから夜遅くまで仕事に従事しておりました。

有限会社から株式会社へ

昭和43年に小金井市前原町に事業所を移し、その年に有限会社小嶋工務店を設立しました。購入した100坪の土地に16坪の事務所と作業所を造り、妻が事務と電話番をして、私は営業と現場管理をしておりました。増改築を含め八ヶ所の現場と営業を一人でやっていましたが、当時、大変だとは思いませんでした。そんな努力の甲斐か、仕事は自然に多くなって来ましたので、組織作りの事もあり、昭和46年に株式会社小嶋工務店に改称いたしました。翌47年から、地元での信用力を付ける為関係官庁の指名入札への参加も始めました。

ED工法との出会い

日頃から他社との差別化を図りたいと思っておりました。そんな中、建材屋の仲間から
「永大産業(株)が新しい工法を開発した」との話しを聞き、色々と研究してみると、今後は
国産材の減少から、このような住宅(ED工法)が日本でも主流になるとのこと。早速、
本社近くに土地を借り、この工法で建てた住宅展示場を造りました。当時ツーバイ材と
合板を3枚縦に張る工法は珍しかったのでしょう、時の農林大臣、桜内義雄氏が当社展示場に視察に来られ激励を受けました。また、翌日には農林省長官が来られ、ED工法の説明を致しました。そんなこともあってか、(株)小嶋工務店の社名が業界では広く知れ渡るようになりました。ED工法も全国規模に普及し加盟工務店も大変多くなり、私もこの仕事に力を入れた事もあり、皆さんから会長にと推され全国ED会会長を
数年務めさせて戴きました。その間、永大産業(株)の皆様には大変なご指導頂き感謝致しております。

在来工法に夢を託す

お陰様で在来工法、ED工法共に仕事量は増えて来ましたが、両工法を柱に家造りをやることは、経営上のデメリットにもなり、どちらかを主力にしなくてはならないと考え始めていました。色々と考えた末、多くの実績がある在来工法に決めました。
どちらの工法にも、長所、短所は有りますが、日本の風土に適しているのは在来工法だという判断でした。ただ、名前のように、昔からの工法ですので日本人の生活環境の変化で、対応しにくいところが出てきたのも事実です。しかし私は、在来工法でも金物を使う事と、大工職の技術レベルを上げることで、お客様のご要望にお答えできる新しい家造りができると確信していました。自由な間取、耐久性、斬新なデザイン、使い易さ等を、全てクリアでき、お客様にご満足頂けるお住まいを考案。
その時に創ったキャッチフレーズが『小嶋の手造り住宅』です。お客様にご満足頂けるお住まいを、精魂込めて造るのが小嶋の手造り住宅です。お陰様で35年以上経った今でも住まい造りの基本としております。

約束は守る(契約書の厳守)

昭和48年10月に発した第四次中東戦争(オイルショック)の影響で、物価が高騰し、特に木材の価格が、午前と午後では二割も高くなるなど異常な状態でした。ちょうど弊社もその頃、小金井市で農家風の大きな木造住宅の請負契約を交わした直後でした。お客さんとの契約前に材木屋さんから見積りを取り、口頭ではありましたが納入の約束をしており、安心しておりました。ところが、ある夜、材木屋の社長と奥様が自宅に来られ、「申し訳ありません、見積りした価額では木材を入れることは出来ません」と、お詫びに来られたので、「約束が違うのでは」と、申し伝えましたが、小さな材木屋さんだったので対応出来なかったようです。弊社でも、全ての現場で材料が高騰し、大変困りましたが、お客さんとは全て契約通り施工させて頂きました。長い間経営をしていると思いもよらない自然災害や人災など色々な事が起こります。その時の対応次第で企業の存続が大きく左右されるという事を実感した出来事でした。私はその頃、朝礼などで『約束を守る事、規則を守る事、時間を守る事』と、よく言っておりました。組織の一員として、お客様やその他の方々から信頼を得る、基本中の基本事項として最も大事な事だと考えています。

創業10年目頃の飛躍

昭和47年 建築業界で初めての15年保証制度を開始。
昭和49年 本社社屋を建て替え、1階に室内展示場をオープン。
昭和51年 多摩市桜ヶ丘「京王線聖蹟桜ヶ丘駅」に初めての営業所を開設。
同年、本社隣に(株)小嶋産業を設立。(不動産事業)
昭和52年 武蔵村山市榎に土地300坪、建物延床面積600坪、新築同様の工場物件購入当社、木材加工工場として稼働

手造りに量産の限界

桜ケ丘営業所開設後1年目、営業所は社員4名に全てを任せておりました。ある時、私の知人の紹介で増築工事を請け負いました。ある日、上棟式に出席のために現場に向かったのですが、上棟できる段階ではありません。現場では2階の軸組みも出来ておらず、棟上げが出来る状態ではないのです。如何したのかと担当者に聞くと「大工さんの墨付けに間違いが多く先に進みません」とのこと。私は、自社の技術力には自信を持っていたのですが、上棟式当日に棟上げが出来ない恥ずかしさと、お客さんに申し訳ない気持でいっぱいになりました。当時、仕事が多くなって来たことで、私の目の行きとどかないところもあり、新しい職人の技術力を見極めるのが困難になっていたのかも知れません。この時、「このままでは会社の信用問題になる、何とかしなければ!」と危機感を持ったものです。

量産高品質を目指して

「このままでは会社の信用問題になる、何とかしなければ!」 そんな思いが続いている中、「大工さんが墨付けをしなくても家が建つ」そんな方法があることを耳にしました。早速調べてみると、それは機械(プレカットマシーン)によるものでしたが、まだ現存せず、これから開発するとのことでした。機械は1台8000万円もの高額で、納期まで1年はかかるとのこと。しかし、何としてもこの機械を入手したい気持ちでいっぱいでした。元来、木造の建物は大工さんが墨を付け刻む(キザム)ことで家を建てていましたが、この工法は機械で木材をあらかじめ加工して使用するので、熟練の大工さんでなくても家が建てられるとの事です。当時の弊社が求めていたのは、「自由設計で高精密度のプレカットが出来る機械」。これらの条件で、静岡県の宮川鉄工様にお願いし、数十回に及ぶ打合せと1年の歳月をかけ、弊社で希望する機械を作って頂きました。

大工さんには、建てた後の造作工事の仕事をお願いします」と言うと「俺たちは大工だ、墨付けをして家を造るのが俺たちの仕事だ」との弁。技術力のある大工さん達の言う事なので大変困りました。私も大工職だったので彼らの気持はよく理解できます。しかし、ここまで来て退き返すことは出来ません、高精密度の製品を加工するには、大工さんより機械加工の方が数倍効率が良いと考えて
おりました。
時代の変化の話や、機械加工された製品を見せ、ようやく大工さん達にも納得してもらい機械加工を進めていきました。その時のキャッチフレーズが、「1000分の1ミリの誤差も無い小嶋の加工」当時は他社には出来なかった製品なので、私も自信を持ってお客さんにアピールしたものでした。

15年保証の充実

雪国生まれの私は、新潟での修業時代から木造住宅は50年や100年は使えるものと思っておりましたが、東京に来て建物の構造があまりにもチャチなのに驚きました。雪国の家は雪の重みに耐えなくてはならないのでとても頑丈です。創業当時から、丈夫な建物を造るのが私の信念でしたので、「家造りの一番大事な構造部材を、自社工場の機械で加工するということは、
住まいを、自信を持って保証できる。」そんな思いの中、当時、何処のハウスメーカーも行っていない「15年保証書」を更に充実致しました。お陰様で以後35年間4000棟に及ぶ建物の保証をさせて頂いておりますが、構造体でお客様にご迷惑をおかけした事は一度ございません。丈夫な家造りを常に心がけ、今日まで事故が無く来たことが本当の保証だと思っております。当社で施工した建物が、今後とも皆様のお城として、末永くお役に立ちます事を念じております。


<転載、以上>

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