【略歴:Wikipediaより】

生い立ち

1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)で、高畑浅次郎の7人目の末子として生まれる。1943年(昭和18年)に浅次郎が岡山一中校長となり、岡山市へ転居。1954年(昭和29年)3月、新制の岡山県立岡山朝日高等学校を卒業。

上京した大学生時代にフランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品と出会い、影響を受け後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳も手がけた。『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。東京大学文学部仏文科卒業。

東映動画からトップクラフトまで

長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて、アニメーション映画を作る事を決意。
大学卒業後に東映動画に入社。『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される。

その後、宮崎駿らと共にAプロダクションに移籍、『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当し、のちのルパンシリーズの原型を作り上げた。
また、映画『パンダ・コパンダ』『パンダ・コパンダ 雨降りサーカスの巻』の演出を務めた。この作品は脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる。

ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。

1977年、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという。楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している。

1980年、『赤毛のアン』が終わりのんびりしていた高畑のもとに、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれた。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、その後、大阪の下町へのロケハンも敢行した。1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。『チエ』が公開された1981年にテレコム・アニメーションフィルムへ移籍した。

同じ時期に、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1981年に完成(劇場公開は1982年)した作品は毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した。

『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』に参加する。
いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する(宮崎駿は一足先に退社していた)。『NEMO/ニモ』製作のための渡米時にフレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。

その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した。
その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。


スタジオジブリ以降

『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していたため、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。そのとき、高畑が「ならいっそのことスタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木らに提案した。これを受け、1985年、徳間書店が宮崎らの映画製作のためスタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し役員への就任を辞退した。現在もスタジオジブリに所属しているが、経営に関わる役職には就いていない。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う畑事務所を持つ。

1988年『火垂るの墓』の監督をつとめる。公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、いったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰している。

1999年公開の『ホーホケキョ となりの山田くん』のあとは、10年以上公開作品がなかった。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ高畑の場合自分で絵を描くことが出来ないので、彼のイメージを具現化できるアニメーターが必要になるのでその点が難しいが、何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。2008年に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。

2009年10月、高畑の新作が日本の古典『竹取物語』を原作に、『鳥獣戯画』のようなタッチで描いた作品であることが報じられた。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『週刊文春』で紹介される。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくてだいぶ先になっちゃうかもしれませんが」と語った。高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年夏に公開予定であることを正式に発表した。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期されることが発表され、同年11月23日に公開された。

ロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインと交流があり、ノルシュテインの代表作『話の話』の研究書(徳間書店)も刊行している。また、前記のフレデリック・バックとはその後も交流や日本での紹介をおこない、尊敬を持って接し続けた。2011年にスタジオジブリの企画によりバックの展覧会を日本で開催した際には、来日したバックとテープカットもおこなっている。2013年12月には亡くなる直前のバックを訪問し、『かぐや姫の物語』を見せることができた。

アニメーション以外にも、人形劇の演出も手がけている。『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしん原作の『国境』をもとに、満州国と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、1989年に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。

近年は、講演活動やフランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画『キリクと魔女』などの一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけている。

2015年6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選ばれる。
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