トップ  >  「風土知」醸成プロジェクト  >  風土知の育成を担うべき「社会教育」を摸索する  >  社会教育プログラム設計の課題と解決の方向性  >  「教養」という概念、考え方を知り、新たな教養学習を摸索する:その1「専門学習から、地域独自の教養学習へ」
新たな教養学習への試案

前章では、教養(リベラル・アーツ)といわれる教育をその起源から、日本式の大学教育における教養学習というものを概観してきたのですが、どうも「様々な知識を増せば満足できる」といった安易なプログラムのように思えてなりません。

そんな中で、自分の気持ち、地域における風土知に最も適した教養教育についての教育論を見つけたのが、2008年でした。

その論者は、内田樹氏(神戸女学院大学教授)で著作は、「街場の教育論(ミシマ社刊行)」です。著作全体に非常に優れた教育論がちりばめられており、一時は、マスコミでも大々的に取り上げられた教育書です。その全体をご紹介できれば良いのですが、この章では、特に「教養学習」についての部分を以下に転載して、ご紹介します。

その論旨の核は、誰もが学ぶことのできる「他者とのコミュニケーション、コラボレーション」を学ぶ教育が教養教育で、今の日本に欠けているものだ。というものです。


以下に11講で構成されるこの本の第5講「コミュニケーションの教育」を転載して、その重要な部分をご紹介します。転載本文は、以下の赤字の部分です。

この本の第5講の流れは、

「君子の六芸」

この部分では、
孔子の説く東洋の必須学問とされた「六芸(礼<祖霊を祀る儀礼>・楽<音楽>・射<武芸としての弓術>・御<動物を操る武術としての馬術>・書<読解・文学>・数<算術>)」がヨーロッパのギリシャ・ローマ伝来の「自由七科(文法・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽)」より、優れている点が述べられ、その西洋文化の影響下で日本では、六芸の最後の2つの「書と数」のみしか必須科目として教えられていない問題を指摘しています。


「教養と専門」

内田氏は、この章で六芸の中から、現代の教養課程で排除された四芸こそが、教養教育の本体であると力説ししています。その理由にこの四芸では、どれも達成目標や成果が数値化できない点だとしています。それゆえにこの四芸が、教養教育の定義といえるとしています。

その言葉を以下に転載してご紹介します。


<転載部分>

教養教育というのは要するに、コミュニケーションの訓練だということです。
それもなんだかよくわからないものとのコミュニケーションの訓練です。共通の用語や度量衡をもたないものとのコミュニケーションの訓練。(中略)

教養教育をそう定義すると、専門教育も自動的に定義されます。教養教育の定義をひっくり返せばいい。
専門教育というのは「内輪のパーティー」のことです。
そこは「専門用語で話が通じる」場所です。あるいは「通じることになっている」場所です。
そこでは、「それはどういう意味ですか?」という術語の定義にかかわる質問をしてはいけません。あるいは「この学問領域は何のために散在するのですか?」とか「あの人はなんで偉そうにしているんですか?」という質問はゆるされません。全員が「その場のルール」を熟視している(ことになっている)というのが専門教育の場です。


<転載、以上>

この話を聞いて苦笑してしまうのは私だけでしょうか?皆さんは、当然と思うのでしょうか。肝は、この説明に続く部分です。この「内輪のパーティー」だけでは、専門領域は成り立たない。「ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみでからです」という氏の説明です。その部分を以下に転載します。

<転載部分>

他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。他の専門家とコラボレートできるためには、自分がどのような領域の専門家であて、それが他の領域とのコラボレーションを通じて、どのような有用性を発揮するかを非専門家に理解させられなければいけません。(中略)
専門領域というのは、「符丁で話しが通じる世界」であり、そこで専門家は育てられる。しかし、「符丁が通じない相手」とコミュニケーションできなければ、専門家は何の役にも立たない。


<転載、以上>

とコミュニケーションの重要性を語られます。そして、その結論として、コミュニケーションの教育である「教養教育」と専門教育の二つが並行的になされなくてはならないと力説されています。

この話を読んで、思ったのは、地域の住民向けに大学が実施する「公開講座」です。大学側は、「難しい専門領域の知識を一般市民にやさしく説明する」という目的、地域連携という課題をこなすためにこうした講座を開いています。
当然、一般市民は「他の専門領域の人」ではないので、「有用な成果を求めるためのコラボレーション」などとは考えず、単に偉い知恵を上から目線で知らない人に教えてあげるという行動です。

結果、何の新たな有用性の高い成果も生むことはなく。ただ、受講した市民は「偉くなった、知恵を授けられた」という気分に満足する結果を産むことだけになります。
当然、教えた側もその結果に満足し、発展させること(もう少し簡単に教えた方がわかりやすいかななどと反省するか、楽しませる工夫が大事かななどと発展させる程度)もなく、ただ、様々な専門の数だけの講座が延々と毎年開かれ続けるというのが実態です。

地域の発展という課題をもった地域住民に答えるという相互のコラボレートを視点とした講座はまだほとんど見たことがありません。非常に残念です。


<以下の章は、作成中です。順次、アップしていきます。>


「自分自身を含む風景を一望俯瞰できる能力」


「歴史のごみ箱」


「他者とのコラボレーション」


「競争を強化しても学力は上がらない」


<転載、以上>

<この項、作成中>
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