【何故、司馬氏は、小説の筆を止め、この連載を始めたのか?】

司馬氏の連載を構想し、続けた想いを知るために氏の随筆やこの連載の巻頭の「この国のかたち」という章、氏の自伝的なエッセイなどをご紹介します。

「この国のかたち」連載シリーズ第1章「この国のかたち」から

氏はこの連載を始めるにあたって、第一章を「この国のかたち」という章にあてました。「まず、なぜこの連載を始めたかを知ってもらわなければ」という氏の強い思いを見ることができます。一部、その章の頭の一文を以下に転載します。


<転載、部分>

日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている。

と私が尊敬する友人がどこかに書いていた。(正確に引用したいのだが、どの本になったのか、記憶にない。だから、著者名もさしひかえざるをえない)。
この場合の思想とは、他の文化圏に入り込みうるーつまり普遍的なー思想をさす。古くは仏教や儒教、あるいはカトリシズム、回教、あたらしくはマルキシズムや実存主事などを念頭においていい。


<転載、以上>

この章は、「この一言への想いとこの結論」がこの連載シリーズを読んでいくため、「日本という国」を理解するための鍵だという認識から、書かれたものなのです。
ただ、結論として、提示されず、「誰かが書いていた」とすることで「読者がこの連載を読み進む旅は、自分がその言葉を追いかけ、日本とはどんな国なのか思索してきた旅なのです」と表明し、「その旅へと読者をこれから案内して行きますよ。是非、お付き合いください。」と語られたのです。考えぬいた末に、この言葉がこの連載の鍵になるだろうと決めた司馬氏の決断が感じられます。

そして、この表現が「“日本という国、その国の人々がつくってきた文化”の独自性を伝えるのになぜ最適だと思えたか」をつぎから、丁寧に説明していきますよと話を続けられます。

つまり、この連載シリーズの第一章は、その概要をまとめ、これから自分の旅に付き合って欲しいとガイド(前置き)しているのです。

この連載第一章の基本姿勢は、その後の文中にある「人間や国家のなりたちに関わる思想と日本の原形について考えている」という一文にも見えてきます。

そして、その次から、「話はかわるが」などとその要素となる「7世紀の古代大和王権成立の風景」を語りながら、日本とはどうして、こんな歴史を刻んだのかと投げかけ、最後にまた、この最初の一文へと戻ってくるのです。その流れを追ってみましょう。


七世紀の大和政権の成立は、学校の歴史の授業でも習う古代史の重要な出来事でしょう。司馬氏は、あえてその政権成立を取り上げて、日本の古代というのは、じつにわかりにくいさらにどうして大和政権が、古代日本の代表的な勢力になったかについても、わからないのであると疑問符を投げかけます。以下にその部分を転載します。重要な部分は、太字の部分です。


<転載部分>

四、五世紀でさえ、大和政権は比較の上での大きさであって、絶対的な存在ではなかった。六世紀ごろでもなお独立性を失わない諸氏族や族長もいたと見るほうが自然である。
私どもは、そのことよりも、七世紀になって様相が一変したというほうにおどろきを持ってゆかねばならない。あっというまに、大和政権による統一性の高い国家ができてしまうのである。この間、戦国乱世ふうの大規模な攻伐があったようにはおもえず、キツネにつままれたような印象をうける。
もっとも、この奇現象は、近代においても経験している。1869年(明治2年)の版籍奉還がそれである。一夜にして統一国家ができてしまった。
七世紀の面妖さについての説明は“外圧”という補助線を引いてみると、わかりやすい。
一衣帯水の中国大陸にあっては、それまで四分五裂していて、おかげで周辺諸国は安穏だった。
それが、五世紀以来、随という統一国家が勃興することによって、衝撃波がひろがった。
日本の場合、この衝撃波は、大小の古墳を築造する族長たちに対外恐怖心を共有させ、これによって、にわかに群小が大(この場合、大和政権)を盟主にしてこれに従うという、ほとんど力学的な現象をひきおこさせることになった。


<転載、以上>

そして、もっとも重要な要素として、「この外圧が具体的な外圧でなく、多分に情報としてのものだった。情報による想像が、恐怖になり、共有の感情をつくらせた。」と語ります。そして、明治維新も正にそうしたものだったと続けるのです。そうした統一国家ができる場合は、洋の東西を問わず、他の先進国家の体制が模倣されるのが通常だったが、日本の場合は、その一部のみを模倣したとして、この六、七世紀の統一国家の作り方を説明されます。以下にその部分を転載します。

<転載部分>

当時の大和の政治家や吏僚が国家をつくるについての“しん”として考えたのは、
「律・令・格・式」(律令制度)というものだった。
(中略)
隋唐の律令制による土地制度は、王土王民制だった。土地も人民も皇帝一人の所有である、という思想である。
この思想は、儒教からでたものらしい。
(中略)
すでにふれたように、六世紀でもなお、こんにち全国の大古墳に眠っている族長や氏族の長たちのいくばくかは、なお土地・人民を私有して独立の伝統と気勢を保っていたが、土地制度をふくむ外来の律令制が導入されると、奇術か魔法にかかったように、それらを手放してしまった。日本史がもつふしぎなはかなさである。


<転載、以上>

そして、この中国の官制導入にあたって、宦官と科挙という制度を採り入れなかったこととなにより、「面としての儒教をとりいれなかったこと」が日本が中国にならなかった原因とされています。もちろん、「面としての儒教」は、司馬氏の独自な表現なので、その定義を別途「学問としての儒教ではなく民衆のなかに溶け込んだ“孝”を中心とする血族的な宗教意識をいう」と説明しています。そして、「結局、日本における儒教は、たぶんに学問ーつまりは書物ーであった、民衆を飼いならす能力をもった普遍的な思想(儒教だけでなく、キリスト教、回教など)として、展開することなく終わった。」と結びます。そして、最初の一文「ー日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている。とはまことに名言である」へと戻ってきます。

そして、さらに
「そのくせ、思想へのあこがれがある。
日本の場合、思想は多分に書物のかたちをとってきた。
(中略)
要するに、歴世、輸入の第一品目は書物であり続けた。思想とは本来、血肉になって社会化さるべきものである。日本にあってそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである。
こうゆう奇妙なー得手勝手なー民族が、もしこの島々以外にも地球上に存在するようなら、ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。」
とこの章を結ぶのです。

この章は次の明治維新の姿を明らかにするための序章です。外からその思想(尊王攘夷)を輸入にして、統一国家へと進んでしまったその姿とその中で学問としての儒教(朱子学)の役割へと案内するために必要な日本という国の政治、政権特性を概観した章でした。

第二章「朱子学の作用」へと進む前にこの連載への想いを司馬氏がこの連載の1章からの流れ以外で語った「連載のあとがき」を次には、ご紹介したいと思います。



<この項、了>