南北朝時代の合戦「金井原の戦い」の地名

この説は、中世、南北朝の戦いがあったとされる「金原の戦い」から、金井という名称、そして、その分村としての「小金井」ができたとされる説です。

府中市史では、上巻の中世編で、この説を「菊池山哉氏の説」として、紹介し、中世の南北朝時代の章で「小金井の名義をについて」という項目で説明しています。先ず、小金井の歴史散歩での「金井原の戦い」に関連する内容を見てみましょう。

【金井原の戦いに関連する記述部分】

小金井の歴史散歩では、
前原町の史跡(前原町一帯)として、68番「金井原の古戦場」(都指定旧跡)を解説していますが、小金井の名義としての説明はありません。
また、72番の中丸・神明宮・光明院跡として、「神明宮のあたりは中丸と呼ばれる小高い土地で、一説に室町時代に勝宝寺と呼ばれる寺があり、金井某が再興の勧進をしたという説(『私案抄(しあんしょう)』)もあるが定かではない。また、江戸時代、この中丸に本山修験小田原玉滝坊の末寺である光明院という修験の坊があった。」という解説がありますが、その詳細については、記述がありません。また、この金井原とされる地域の「前原」自体の地名の説明は、こちらをご覧ください。
また、室町時代にこの地にあったとされる勝宝寺については、「多摩のあゆみ」の第43号「多摩の歴史と風土」にある「小金井古道と勝宝寺考(皆木繁宏著)」も目を通しておきたいと思います。また、光明院については、小金井市の市誌編纂資料に「編纂資料第54編『上小金井村光明院文書』」があるので、参考にしてみたいと思います。最終的には、平成30年秋に刊行される予定の小金井市史の通史編を待つことになりそうです。その後に刊行される古代・中世資料編、平成29年に刊行された近世の資料編も一応目を通しておきたいと考えています。


次に以下に府中市史の「小金井名義について」「金井原の戦い」やその説を唱えた菊池山哉氏のこと、またこの「金井原の戦い」時代の歴史的な基本知識としての南北朝の争いについての説明を以下に紹介していきます。


小金井の名義(府中市史上巻:388P〜、菊池山哉氏の説より転載)>菊池山哉氏については、こちらから

小金井の名義を説くすべての人が、湧水を原義としている。台地の裾からいまでも滾々として湧き出る清泉がその語源であり、黄金のような色であるとか、砂金がはいっているからなどと説くが、字義にかかわった解釈で、小金井の清水ならずとも滾々としてわきでる清水で、黄金のように清くないものは、都下に一か所もない。しかし他に清水を小金井とするところは一か所もない。いまにここだと称している所は、湧水量が多いというだけで、ほかになんら徴すべき資料はない。
小金井の語源が湧水へ誘ってゆくものは、隣村に貫井があるからである。貫井はいうまでもなく、温井のことであろうか。さきにあげた金井の弁天祠の湧水が貫井で、今の弁天貫井はそののちのものであると、土地では伝えているから、貫井の語源も今日の貫井弁天の湧水が、それだと速断しては困る。
武蔵野の歴史地理では、金井と書いて「こがね井」と読むのであろう。金は古語で「こがね」だといわれたが、この説を肯定するためには、小金井の語源は、やはり小金のような湧水からという前提が必要である。のみならず、金は古語で「こがね」に違いないが、金でも銀でも鉄でもすべて金物といい金と書いてきているから金井と書いて、こがねと読むのだといわれても少しく危惧の念をともなう。まして軍中状などを史料にされてもそれははるばる遠くから来た兵士が土地で聞いた呼び名を書いたのである。歌や今様とはちがうから、こがね原とよんだものを、果たして金井原と書いたかどうか、多大の疑問がある。現に、『太平記』では、「金」と書いて、「かね」と読ませている。


<小金井名義のおこり(前章に引き続き、転載)>

いつから小金井の呼称ができたかといえば、光明院には、寛文年間(1661-72)最初の検地の時に、村中のものが寄りあいをしたとの伝えがある。しかし江戸初期少なくとも寛文のころに最初の検地があった時の名主は、鎌倉以降の板碑のある分家の梶氏であった。梶氏の本家は、天台宗光明院を宗門改めのとき、光明院の配下であった金蔵院に譲り、本山修験小田原玉竜坊の配下となり、これを分家に与え、もっぱら神明神社の神主となったという。このため名主は分家に譲るということになったと伝えている。そのため明治になっても、先代までは神明神社の神主から北関野新田の八幡神社、南関野新田の天神社、人見村の浅間神社、同稲荷神社の神主をしてい[た。

現在、梶平十郎氏の家に寛文の水帳はないが、延宝六年(1678)・天和三年(1683)のものがある。それによると、むろんまだ上下(小金井)に分かれておらず、小字名は、大上堀、橋場下、屋敷下、寺前、天神前、二枚橋上の六つの字であり、合計五町四反一畝十八歩の水田が全村のものであったことがわかる。このうち四分の一は、光明院の所有である。
大上堀は、前に述べた弁天祠であり、橋場下は、その北、屋敷下は、金井家の屋敷下、寺前は、光明院の前、天神前は、今の小金井神社の前、二枚橋は、品川街道に架せられ、最下流の水田である。
約250年前の小金井村の水田面積からすると、小さな部落であり、金井山がその中心であったことがわかる。

分家が全村を支配する以前に、本家では、分家を小金井(こがねゐ)とよんでいたのではないだろうか。本家といっても鎌倉時代に成立したのであるから数軒の譜代もあったろうが、しかし本郷と枝郷ほどの大きいものではなく、はじめから分村の形をとるほど地域が広大でもなかった。旦那方、小旦那方という意味の金井方、小金井方の称呼が小金井のおこりではないかと思う。この例は隣村の人見村などにもある。


<転載、以上>

この後の章で、さらに人見と小人見と呼ばれた例を説明されています。
また、この章の前の章「金井原と人見原の位置」では、この説にいたった菊池山哉氏の調査が小金井村の村長平井武茂氏の諮問に応じたものであったことや慶長八年(1603)に金井村が全焼した後に創建された金井山光明院、その後の天正十三年(1585)には神明神社が創建されています。この神社が小金井村の総鎮守であったことは確かです。それ以外では、金井氏を称する一族は、「多麻史談」の発行人であった金井総介氏(金井村の南一里、常久村の名主)が良く知られていますが、この一族も家系をはっきり伝えていないようです。
そして、金井という地名の由来は、同章の中では、以下のように説明しています。


<転載部分>

小金井の元村たるべき金井山光明院の一画、五町歩ばかりの地域をなぜ、金井とよぶかといえば、この亀甲状の地域を、淙々たる野水がさかさまにしたV字形に流れ、「かね」すなわち直角に曲がった、沼地をもって取り囲んでいる。そこで「金井」といったのであろうと思う。金町・金谷・金沢・金田・金ヶ崎とか三輪とかは、同一語源で、諸国に累々として例のある、通俗地名の起源論である。

<転載以上>


<この項、続く>
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