地図によっては、「下染谷」と表記されている「下染屋」。この地名の「押立」同様に多摩川沿いの字、村の名前です。
押立は、まだ、新小金井近くで、多摩川からの是政線を経て、この地域が連携しているのは理解できるとしても、東小金井駅の北側、中央線の北側に「下染屋」という地名があるのは、なぜなのでしょう。この地域の住民でも「下山谷」の間違いじゃないのなどと言われる方もいる程です。


【多摩川南岸・下染屋とは】

下染屋村(下染谷村)は、現在の府中市白糸台になるようです。この地域には、下染屋神明社などもあり、下染屋という名前の由来を記載した標識もあるようです。その標識には、

下染屋(しもそめや)は現在の白糸台3丁目の旧甲州街道沿いに集落の中心があったこと。さらには幕末の地誌には、民戸37と記され、甲州街道沿いに並んでいたことなどと一緒に地名の起こりについても以下のように記載されています。

地名の起こりは、調布の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所。もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれた。その時期は不明とのこと。寛永12年(1635年)の検地帳には、下染屋となっているおり、染屋の地名は、古くは、南北朝時代の資料にも載っているとしています。

明治初期の頃の多摩川中流域の村組織、助郷の図(こちら)を見ると、周辺の村々との関連を見ることもできます。

また、上染屋については、上染屋神社の創建が古く、その情報を以下にご紹介します。


<上染屋神社とは>

上染屋八幡神社(かみそめやはちまんじんじゃ)は、東京都府中市白糸台にある神社です。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

鎌倉時代末期の正慶2年(1333年)、上野国碓氷郡八幡
(以下にWikipediaより、この八幡宮の情報を転載)より武蔵国府に遷座したと伝わっています。御祭神は品陀和気命。

本地仏に、上州八幡の庄などの地名の他、鎌倉時代中期の弘長元年(1261年)の銘が残されています。
南北朝時代の正平11年(1356年)、武蔵守新田義宗が社殿を再建されたようです。江戸時代前期の承応2年(1653年)8月、多摩川の洪水で社地が流失したため、現在地に遷座しました。
上染屋村の鎮守で、『新編武蔵風土記稿』上染屋村の項にも「八幡社」とあり、「鳥居は街道をのそめり」などとある。別当は、玉蔵院で、染屋山神宮寺と称しました。


<上染屋神社について、以上>


この新田義宗は、南北朝時代の武将で新田義貞の三男です。南北朝の合戦では、金井原の戦いなどに南朝方を指揮する立場で参戦しています。金井原の戦いが、正平7年/観応3年(1352年)閏2月ですから、その4年後に社殿を再建したことになります。この時期は、越後に敗走していたとされていますから、どのような形で再建したとされたのかが、不明です。以下にWikipediaより、その戦い前後の新田義宗の動きを転載して、ご紹介します。

<Wikipediaより、新田義宗の武蔵野合戦とその後の活動を転載>

正平7年/観応3年(1352年)閏2月に正平の一統が崩れると、宮方と観応の擾乱で足利直義方に付き足利尊氏に敵対した武士をあわせ、同年閏2月15日に上野で挙兵する。
武蔵国金井原(東京都小金井市)などで尊氏と合戦する。
三浦氏の支援を受け、(兄)義興は迂回して鎌倉に突入し、尊氏の子基氏を敗走させ、鎌倉の奪還を果たす。基氏は武蔵国石浜(東京都台東区)で義宗と対陣していた尊氏と合流し、義宗を破る。
義宗は退いて笛吹峠(埼玉県嵐山町)に陣を敷き、足利軍を迎え撃った。直義方だった上杉憲顕の参陣を受けたが、足利軍に敗北し越後へ落ち延びた。
(兄)義興は3月2日鎌倉を脱出し、関東南朝方の挙兵は鎮圧された。これら一連の戦いを総称して「武蔵野合戦」という。

正平13年/延文3年(1358年)、尊氏が没したのを機会に関東で決起を図り東国の南党に働きかけるが、(兄)義興が武蔵国矢口渡で基氏方に謀殺されたため頓挫。その後も義治と共に越後を中心に散発的に行動するが、南朝方の劣勢は増すばかりで組織的蜂起はできなかった。


<転載、以上>
<Wikipediaより、碓井郡八幡宮について転載>

上野國一社八幡宮(こうずけのくにいっしゃはちまんぐう)は群馬県高崎市八幡町にある神社である。旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮・板鼻八幡宮[1]と呼ばれていたと言われる。現在は一般的に八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。

由緒

上野國一社八幡宮は、天徳元年(957年)に源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建されたという。その後、 源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀されている。

境内および社殿

境内敷地は約9,000坪。現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は文化11年(1750年)ないし宝暦7年(1757年)の再建とされる。本殿は天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮である。

重要文化財

3面の算額が県の重要文化財に指定されており、その中には文化7年(1810年)と、群馬県内で最古のものも含まれる。なお、平成の世に入っても算額の奉納を受け付けているが、例はほとんどないという。


<転載、以上>
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