司馬氏の「私事」と「この国のかたち」を書く背景を読む

この章では、「この国のかたち」の解題ともいえる本講座を連載の(一)次の章「朱子学の作用」へと進めず、司馬氏のこの連載への想いをさらに別な氏の文から、読むことにしました。
その理由は、この講座目的が「この国のかたち」という連載シリーズを通じて、氏の「物語」を読むことだからです。

この章では、シリーズ「この国のかたち」の(一)を終えた時点で、司馬氏がそのあとがき(1990年1月)に書いた「私事にふれたい」という一文をご紹介します。
その部分を以下に転載します。



<転載、部分>

(前略)
以下、私事にふれたい。

私はいまだに二十代前半であった自分から離れられずにいる。そのころの私は、憲法上の義務によって兵役に服していた。
それが終了するのは、1945年8月15日の敗戦の日だった。私にとって、二十三歳の誕生日を迎えて、八日目のことである。私どもの連隊はいわゆる満州の国境近くにいて、早春、連隊ぐるみ移動し、思わぬことに関東平野に帰ってきた。当時、栃木県佐野に駐屯していた。
兵役期間中、だれでもそうだっただろうが、即座に死ねる自分でありたいと思いつづけていた。なんのための死ということではなく、さらにいえば死に選択はなく、よき死に悪しき死もないと思っていた。
むしろ愚かしく死ぬべく自分に言いきかせていた。たとえばレンガが落ちてきて頭にあたって死ぬとか、足を踏み外して崖から落ちて死ぬといったようにである。
当時の彼我の戦争の構造は、対戦というものではなく、敵による一方的な打撃だけでも、もし敵の日本本土上陸作戦がはじまると、私の部隊は、最初の戦闘の一時間以内に全滅することはたしかだった。死はまことに無差別で、死に良否も賢愚も美醜もないというのは、戦争の状況がそれを教えていた。
私は毎日のように町を歩いた。この町は、十三世紀からの鋳物や大正期の佐野縮など絹織物による富の蓄積のおかげで町並には大きな家が多く、戦時中に露地に打ち水などがなされていて、どの家のどの辻も町民による手入れがよくゆきとどいていた。
軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ねるなら多少の意味があると思ったりした。
が、或る日、そのおろかしさに気づいた。このあたりが戦場になれば、まず死ぬのは、兵士よりこの子らなのである。
終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことがとおもった。
(むかしは、そうではなかったのではないか)
と、思ったりした。むかしというのは、鎌倉のころやら、室町、戦国のことのことである。
やがて、ごくあたらしい江戸期や明治時代のことなども考えた。いくら考えても、昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようにはおもえなかった。
ほどなく、復員し、戦後の社会のなかで塵にまみれてすすごすうち、思い立って三十代で小説を書いた。
当初は、自分自身のたのしみとして書いたものの、そのうち調べものをして書くようになったのは、右にふれた疑問を自分自身で明かしたかったのである。
いわば、二十三歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた。
二十余年、そのようにして書き、ほぼ当時の疑問が解けるようになったころ、冒頭にふれたように、熊本に滞留していた。その日のうちに、
「この国のかたち」
という題にきめた。

来しかた、“手紙”を書き続けることによって感じたさまざまなものを、あらためて形象としてとりだし、説明的文体でもって書いてみることにした。

私は、日本はたとえば、ブータンやポーランドやアイルランドなどと比べて、特殊な国であるとはおもわないが、ただ、キリスト教やイスラム教、あるいは儒教の国々よりは、多少、言葉を多くして説明の要る国だとおもっている。書きながら、語りかけている相手として、ソウルの未知の韓国人を想定したり、ニューヨークで出会うかもしれないアメリカ人の見知らぬ相手を思ったりした。
(1990年1月)


<転載、以上>


この「この国のかたち」シリーズは、司馬氏が最後の小説「疾風韃靼録」を1987年に刊行し、小説を書くのをやめた後に「街道をゆく」などとも並行して、1990年から、6年間に書かれた文芸春秋の巻頭コラムです。
小説を書きながら考えてきたことを綴り、楽しみとしての小説ではなく、日本のことを多くの人々や二十三歳だった頃の自分に説明しようと筆をとったことがわかります。

「なんとおろかな国にうまれたのだろう」「昔はちがったのではないだろうか」

と戦争を経験した人々が語るとき。「日本とは一体どんな国なのか」と問い返す必然を自分の中にみるとき、その風景を目の当りにするとき。
私たち戦後世代も、同じように「一体どんな国なのか」と問い返す必然を自ら持っているのかを考えずにはいられないといつも思ってきました。

「平和ボケ」「無気力世代」など色々な形容詞でくくられて、呼ばれた自分たちがこの国をどう考えるのか。戦中世代の彼らから、投かけられてきか得体の知れない塊をどのように投げ返すのかをいつも考えてきたように思います。

そのことが私にとっての、この講座をすることに繋がっています。自分への答えを見つけるには、彼等と同じ荷物を担ぐことはできなくとも、自分の荷物を知ることでできるかもしれない。そんな想いだったように思います。

もっと深く、その懐に潜り込んで、その血肉となった想いを知ることでしか「受け継ぐ」「投げ返す」ことはできないと思えました。

さらっと読み進んで、解ったような気にはならないこと、その思索の旅にとことん付き合うとともに風土知研究として、
「自分のものにする=自らの風土で理解する」方法を考えだす。
同じ風土を共有する仲間と「自らの風土知として、考え始める」ことがこの講座の目的です。


「この国のかたち」という連載は、小説という手法を止め、この手法でしか、伝えられないと認識した司馬氏の選択です。その決断に寄り添うことがこの講座の目的です。
「この国のかたち」を書き進む過程で、どのように司馬氏の想いは重なっていったのかを連載シリーズの通りに追いかけるだけでなく、司馬氏が読み手をもっとも意識するだろう、「あとがき」という情景で読み手へのメッセージで鳥瞰することも必要な気がします。

さらに次の章では、この国のかたち(二)(三)や(四)のあとがきも紹介しようと思ったのもそうした目的があってのことです。
このシリーズを書き続け、その過程でどのようにこのシリーズについて、司馬氏は語ったのかをご覧いただきます。


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