武蔵七党の登場

先ず、基本となる「武蔵七党とは」をWikipediaの情報などを元に紹介していきます。

<Wikipediaより、転載>

武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

構成氏族

「七党」を構成する氏族は文献によって異なる。
『武蔵七党系図』:横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)
『書言字考節用集』:横山党、猪俣党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、私市党
『武家職号』:横山党、猪俣党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、綴党、私市党
上記の三説の異同を整理すると横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)、綴党、私市党となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。

歴史

平安時代

武蔵国は台地が広がり牧畜に好都合で、関東にいた人が馬飼部として牧畜に携わったことから、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。

武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍し、生産条件の良好な典型的な条里地域を根拠地としている。

各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。

鎌倉時代

武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だった。『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。『六条八幡宮造営注文』でも、469人中84人と圧倒的に多い。また日本全国に拡大移住していった。承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。

南北朝時代以降

南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。
その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

武蔵七党とされる諸党

横山党

詳細は「横山党」を参照
武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。武蔵七党系図筆頭である。(一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。

猪俣党

詳細は「猪俣党」を参照
武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)。猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など。保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。

野与党

詳細は「野与党」を参照
武蔵国埼玉郡、現在の加須市付近の野与庄を中心に勢力のあった武士団で、足立郡、比企郡などに同族がいた。先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。

村山党

詳細は「村山党」を参照
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族である。村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。武蔵平一揆により衰退する。

児玉党

詳細は「児玉党」を参照
武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父、大里、入間郡および上野国南部あたりに勢力があった一族。元々の氏(本姓)は有道氏(有道宿禰)。児玉氏、庄氏、榊氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏などなど。武蔵七党中、最大勢力の集団を形成し、その本拠地は現在の本庄市である。

西党

詳細は「西党」を参照

多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。


丹党

詳細は「丹党」を参照
秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏(多治比真人)の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏など。入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っている。

綴党


私市党

私市党 は、騎西(北埼玉郡騎西町)の皇后の御料地である私市部の管理をした。牟自の子孫の黒長から私市氏を称した。

主な参考文献

^ 柴田孝夫『地割の歴史地理学的研究』、古今書院、1975年


<転載、以上>

このWikipediaの概要説明は、主に参考文献として、柴田孝夫氏の「地割の歴史地理学的研究」を元にというよりは、唯一の資料としている点が問題もあるが、一応の概要を掴むには、便利かもしれません。
また多摩地区の武士団としては、赤字で示した「西党」が多摩川流域の武士です。以下に西党の詳細もWikipediaより、転載しておきます。

この他にも資料としては、「武蔵の武士団ーその成立と故地をさぐる」(安田元久著 有隣堂刊 昭和59年)などもあるので、別途調べて、ご紹介したいと思います。


<Wikipediaより、転載>

西党(にしとう)は、平安時代から戦国時代にかけて武蔵国西部、多摩川流域を地盤とした武士団である。いわゆる武蔵七党のひとつで、武蔵守日奉宗頼を祖とすることから日奉党(ひまつりとう)ともいう。一族には一ノ谷の戦いで有名な平山季重が居る。

名前の由来

2つの説がある。1つは宗家の西氏は土淵荘(つちぶちのしょう、現在の東京都日野市栄町5丁目)の東光寺上の七ツ塚付近に居を構えた。ここは国府(現在の府中市に置かれていた)の西にあたることから、西氏を称したという説。1つは日奉氏が日祀部(ひまつりべ)と関係があることから、これを音読みしたという説である。

なお日奉氏の日野宮神社は、日野市という市名の由来となったという説がある。

歴史

西党は武蔵国の勅旨牧、由井牧(八王子市)・小川牧(あきる野市)の多摩丘陵等の丘陵地帯を基盤として発展したと思われる。一族は多摩川やその支流である浅川、秋川などの流域に住っていた。丘陵の間に段丘がつくられ、小規模であるが生産条件は悪くはない地域である

室町時代には西党の勢力圏で分倍河原の戦いや立河原の戦いなど大きな戦いが次々と起きた。戦国時代になると滝山城や八王子城が次々と建てられた。

西党の一族

平山氏

一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる、西党きっての有名人平山季重を出した一族。京王線の平山城址公園駅から近いところにある宗印寺(日野市平山)には季重の墓や木造が伝えられている。平山氏は筑前国原田荘の地頭となり、季重の孫である重実が筑前平山氏の祖となっている。

立川氏

詳細は「立川氏」を参照
立川氏は立川市南部を地盤としていた。普済寺はその館跡と言われている。

川口氏

川口氏は川口川流域(現在の八王子市川口町)を地盤としていた。 初代は日奉宗頼の子である西宗貞の孫、川口次郎大夫。

由井氏

由井氏は八王子市由井町を地盤としていた。武蔵国の勅旨牧の1つ、由井牧の別当であった、日奉宗弘(西宗弘)の血筋を引く。北条氏照が一時期、「油井源三」(由井源三)と名乗っていた。

田村氏

田村氏は現在の日野市万願寺付近を地盤としていたと言われる。この地にある田村山安養寺(たむらさんあんようじ)は館跡という。ちなみに安養寺は土方歳三の生家の北西500mほどのところにある。

磯氏

磯氏は現在の国分寺市富士本付近を地盤としていたと言われる土豪。土着化した高句麗系の渡来人の一族である。

下鎌田分家磯氏

西党磯氏に仕え、磯姓を名乗る事を許された武蔵七党の末端な野武士。下鎌田村に朝鮮半島との密輸交易を生業としていた。町村制の施行に伴い、東京府南葛飾郡瑞穂村現在の東京都江戸川区西瑞江付近に戦災移民したと言われる。土着化した高句麗系の渡来人の一族である。

小川氏

小川氏は武蔵国の勅旨牧の1つ、小川牧を基盤としていたと言われる。その後、薩摩国甑島に領地を得、土着している。この甑島の小川氏に伝わる系図は原本は平成に入ってから火災で失われたもの、研究家の写真撮影によるコピーが残されており、西党研究の貴重な資料となっている。
初代は西次郎宗貞の玄孫である小川太郎宗弘。

小宮氏

小宮氏は現在のあきる野市秋川上流域を地盤としていた。初代小宮三郎道經は12世紀後半の武蔵野国秋留郷の地頭。三代目又四郎經行の兄弟4人が九州へ地頭として赴任。 戦国時代初期には小宮上野介憲明が戸倉城を築城。 小宮氏の氏神である小宮神社(あきる野市草花)には寛正4年(1463年)に小宮上野介憲明が奉納した梵鐘がある。


<転載、以上>
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