さて、「この国のかたち」での司馬氏の想いは、整理したものの、どのように地域の各世代の学習に展開するのかが、本来の課題です。

この項では、高校の歴史の授業での展開例を摸索します。第一のテーマは、

七世紀の大和政権の成り立ちと律令制の導入をどう学ぶか?
です。

再度、この七世紀の大和政権の成り立ちについて、司馬氏の「この国のかたち」での記述部分を以下に参照します。


<参照部分>

四、五世紀でさえ、大和政権は比較の上での大きさであって、絶対的な存在ではなかった。六世紀ごろでもなお独立性をうしなわない諸氏族や族長と見る方が自然である。

私どもは、そのことよりも、七世紀になって様相が一変したというほうにおどろきを持ってゆかねばならない。あっというまに、大和政権による統一性の高い国家ができてしまうのである。この間、戦国乱世ふうの大規模な攻伐あったとは思えず、キツネにつままれたような印象をうける。(中略)

七世紀の面妖さについての説明は、“外圧”という補助線を引いてみると、わかりやすい。一衣帯水の中国大陸にあっては、それまで四分五裂していて、おかげで周辺諸国は安穏だった。
それが、五世紀以来、随という統一国家が勃興することによって、衝撃波がひろがった。
日本の場合、この衝撃波は、大小の古墳を築造する族長たちに対外恐怖心を共有させ、これによって、にわかに群小が大(この場合、大和政権)を盟主にしてこれに従うという、ほとんど力学的な現象をひきおこさせることになった。

ついでながら、七世紀のこの“外圧”といっても、随の煬帝が高句麗を攻める(611〜14)というふうな具体的な外圧ではなく、日本にやってきたのは、多分に情報としてのものだった。情報による想像が、恐怖になり、共有の感情をつくらせた。


<参照以上>


そして、「この国のかたち」で、司馬氏は
さらに「洋の東西を問わず、統一国家の作り方というのは、古代以来、近代にいたるまで、他の先進国家の体制が模倣されてきたことを指摘し、それが大化の改新では「律・令・格・式」だった。」と結んでいます。

さて、ここからは、実際の公教育(中学高等学校での歴史授業)で、この律令制とその導入の経緯(七世紀に情報として届けられた随の成立という衝撃波)は、どのように教えられているかを見ていきます。以下にその学習項目などの情報をインターネットで検索などして、収集したものを掲載します。


高校の日本史B:古代から


<日本史Bの教科書から、概要部分を転載>

6世紀前期

大伴(おおとも)氏が朝廷で実権を握る

筑紫の国造磐井(いわい)の乱
*新羅と手を結んで反乱を起こす

6世紀中期

朝廷では物部(ものべ)氏と蘇我(そが)氏が対立する
*百済から仏教が伝来
*仏教を受け入れる蘇我氏
*仏教を受け入れない物部氏

加耶(かや)が滅亡する

6世紀後期

蘇我氏が物部氏を滅ぼす
*蘇我馬子(うまこ)が権力を握る
*崇峻天皇を暗殺して推古(すいこ)天皇を即位させる

7世紀前半

蘇我馬子と厩戸王(うまやどのおう)の政治
冠位十二階(かんいじゅうにかい)制度
*昇進も可能

憲法十七条(けんぽうじゅうななじょう)の設置
*官僚の心得

遣隋使の派遣
*対等外交を要求
*高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)を隋に留学させる

厩戸王の死後に蘇我氏の独裁
*蘇我入鹿(いるか)が山背大兄王(やましろのおおえのおう)(厩戸王の息子)を殺害

乙巳(いっし)の変
中国のように律令体制という皇帝を中心とした強力な政治体制を築くことが目的
*中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏を滅ぼす
*蘇我蝦夷(えみし)・入鹿父子はが殺され蘇我氏が滅亡

7世紀後半の政治について

律令体制(りつりょうたいせい)を確立する時期
*天皇を中心とした中央集権体制を作る時期です 

-|翅膩珊鳥劼了代

●孝徳(こうとく)天皇期

難波宮(なにわのみや)に遷都
*蘇我(そが)氏の影響が強い飛鳥(あすか)の地を離れることが目的

蝦夷(えみし)の制圧
*関東・東北地方にいた天皇に従わない人々の制圧
*越後(現在の新潟県)に渟足柵(ぬたりのさく)・磐船柵(いわふねのさく)という城を作る

●斉明天皇期

阿倍比羅夫(あべのひらふ)を蝦夷地へ派遣して蝦夷の制圧を行う

白村江(はくそんこう)の戦いが起こる
*朝鮮半島で唐と新羅が百済を滅ぼす(百済は日本と友好関係を持っていた)
*日本は百済と結んで唐と新羅と戦う
*日本は負けて朝鮮半島から撤退する
*朝鮮半島で高句麗(こうぐり)が滅び、唐の勢力が追い出され、新羅が半島を統一する
 
●天智天皇(てんちてんのう)期

実権を握っていた中大兄皇子が天智天皇として即位
*朝鮮からの攻撃に備えて水城(みずき)を作る
*都を近江大津宮(おうみおおつのみや)(滋賀県)に移す
*最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成する

-天武天皇の一族の時代

壬申の乱(じんしんのらん)
*天智天皇の死後、天智天皇の独裁に対する不満が噴出する
*天智天皇の息子を倒して大海人皇子が天武(てんむ)天皇になる

●天武天皇期

都を飛鳥に戻す
*天智天皇の影響力がないところへ戻す 

八色の姓(やくさのかばね)の作成…皇族中心の身分制度

飛鳥浄御原令(あすかきよみがはられい)の制定

●持統(じとう)天皇期

飛鳥浄御原令の施行

庚寅年籍(こういんねんじゃく)の作成
*これ以降6年ごとに戸籍が作成される

694年:藤原(ふじわら)京に遷都する
*日本で最初の本格的な都城

●文武(もんむ)天皇期

「中央集権体制の確立」の総決算を行う

大宝律令(たいほうりつりょう)の作成
*律令体制の根本法典を作成する


<転載、以上>


上記の例でもわかるように古代・大化の改新について高校の日本史で学ぶのは、主に大和政権の抗争、その登場人物と争いについての知識です。
それと比較して、「この国のかたち」での説明では、蘇我氏、物部氏、中大兄皇子という大和政権の需要人物とその活躍は当然、述べられていません。この国のかたちで肝心な点は、大和政権による国内の統一という事態を各地の豪族がすんなりと認めてしまったという突然の出来事です。そして、その結果としての律令制とはどんな影響を各地に与えたのかという点に焦点を当てているのです。

次には、「この国のかたち」での、律令制とは?とその制度の随からの導入の仕方を説明を転載して、同様に中学高等学校での律令制についての学習と比較してみます。


<「この国のかたち」からの同律令制に関しての転載部分>

蛇足ながら、律とは刑法で、令は行政法てきなものをさす。格とは律と令の補足とか例外的な法規であり、式は律令を施行するにあたっての細則のことである。
「律令格式」とひとことで呼ばれるものは、近代法でないながら、四者は相関し、法体系といってもいい。
律用格式は、古い歴史がありながらも、随唐のとき、新品のような光沢をおびて、いわば完成した。
六、七世紀の日本は、その大部分を導入した。実情にあわぬところは、多少修正された。
随唐の律令制による土地制度は、王土王民制だった。土地も人民も皇帝ひとりの所有である、という思想である。
この思想は、儒教からでたものらしい。『詩経』にいう「普天ノ下、王土ニ非ザルハ莫ク、率土ノ浜、王臣ニ非ザルハ莫シ」ということばは、当時の中国では慣用句のようなものになっていた(降って十四世紀に成立した日本の『太平記』にもこの慣用句が引用されている)
すでにふれたように、六世紀でもなお、こんにち全国の大古墳に眠っている族長たちや氏族の長たちのいくばくかは、なお土地・人民を私有して独立の伝統と気勢を保っていたが、土地制度をふくむ外来の律令制が導入されると、奇術か魔法にかかったように、それらを手放してしまった。日本史がもつふしぎなはかなさである(ついでながら、国造などと呼ばれた地方の豪族たちは、新管制による郡司に任命された)

このようにして、随唐の管制を導入しながらも、もっともユーラシア大陸的な宦官(かんがん)は入れず、また随唐の帝政の基本というべき科挙の制もいれなかった。この二つをもし入れていれば、当時の日本は、中国そのものになっていたろう。
さらに大きなことは、面としての儒教を入れなかったことである。

こういえば誤解をまねくかもしれない。
念のために「面としての儒教」などという自分勝手な概念に定義をくっつけると、
学問としての儒教ではなく民衆のなかに溶け込んだ「孝」を中心とする血族(疑似血族も含む)的な宗教意識をいう。ここから、祭祀や葬礼の仕方や同性不婚といった儀礼や禁忌などもうまれる。これら儒教のいっさいをシステムぐるみ入れたとすれば、日本は中国社会そのものになったにちがいない。
結局、日本における儒教は多分に学問ーつまりは書物ーであって、民衆を飼いならす能力をもつ普遍的な思想(儒教だけでなくキリスト教、回教など)として展開することなくおわった。


<転載、以上>

さて、この内容を比較して、中学高等学校の歴史では、どうでしょう?

大宝律令や飛鳥浄御原令の制定などは唐の皇帝を中心とした政治制度の導入という説明とともに触れられますが、その鍵となる先進文化からの導入の実態については、ほとんど触れられません。
受験のための歴史とでもいえる成立年代や関係する人物を憶えさせる程度の内容が羅列して、説明されるだけというのが、実際の授業のようです。

自分が受けた授業の記憶でもそうした内容だったことが思いだされます。

この講座の目的のひとつは、こうした「この国のかたち」にまとめられたもの=高校の授業では触れられなかったもの、つまり日本の姿の違った形での発見が第一の目的なのです。

さらに、もっと大事なことは、
[b]「では、この時期の自分が住んでいる地域はどんなだったのか」という疑問にたどり着き、それぞれの地域風土での歴史の把握へと進んでいくことなのです。
それこそ、司馬氏が望んでいた、自ら「この国のかたち」から踏み込んで、さらに発見していこうとすることなのです。

次の章では、こうした「語られなかったそれぞれの地域での歴史」を発見するための学習を考えていきます。
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