なぜ、関東?が発端

2001年森浩一先生の「関東学をひらく―調査ノート1999-2000」に出会った時の衝撃は、今も忘れられません。
それまで、司馬遼太郎氏の日韓交流などの講演会で司会を森氏がされていたときから、その古代史の著作は数多く読んでいました。
それでも、この「関東学をひらく」というテーマが提示されたときに、自分がいままで漠然と感じてきた「地域知=風土知」として、なんとなくその必要性を感じていた「何か」を目の前に突き付けられた気分になりました。

ほんとうにこれだったのか!という感慨が胸の奥に湧き上がってきました。

森先生は、この著作の序文ともいうべき「はしがき」で以下のように語られています。丁度、この調査が大学に勤務する長い生活に終止符を打った後の転換期ともなった調査の報告であることをことわった上でその「関東学をひらく」というこの調査ノートことの意味するところを「考古学による地域学創造への旅の記録」として語られています。以下にその一部を転載します。


<転載、部分>

<前略>
最近気づくのは、ある地名に学をつけた見かけのうえでの地域学がひじょうに多いことだ。ある土地についての知識をあれこれ知ることはもちろん大切だが、それだけでは古くからある郷土史や郷土学と変わらない。本書の「対馬と信濃の善光寺」の項で述べるように、コンパスの軸ともいうべき自分の視点をしっかりとその土地に置いて、しかも日本列島全体、少なくとも東アジア全体での展望のなかで見据えないと、僕のいう「考古学は地域に勇気を与える」という場合の地域にはならない。
<後略>


<転載、以上>

この本に勇気をもらって、風土知研究にさらに身が入ったといってもいいほど、この著作からは、学ぶとことが多かったのです。

次章以降に続くこの講座は、その一端でも知ってもらいたくで森浩一氏の研究とその生き方の物語プログラムとして、構成したものです。

このプログラムのために、一応森先生の略歴をWikipediaから、以下に転載しておきます。


<Wikipediaより、転載>

森 浩一(もり こういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。同志社大学名誉教授。専門は日本考古学、日本文化史学。従姉妹に随筆家でイタリア文学者の須賀敦子がいる。

略歴

大阪府大阪市出身。少年時代は堺市近郊に住み、尋常小学校の国史の国定教科書における記紀神話と、堺市の百舌鳥古墳群を通じて、古墳及び陵墓への関心を抱く。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1951年に同志社大学文学部英文学科卒業、1957年、同大学院文学研究科文化史学専攻修士課程修了。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組む(例:黄金塚古墳)。学生考古学研究会も創設(後に古代学研究会)。その後、府立泉大津高校の教諭を勤める傍ら、古墳の発掘に従事(例:奈良県 新沢千塚)。その後東京大学の井上光貞により『日本の歴史』(中央公論社)の考古学担当の執筆者に抜擢される(日本の歴史1神話から歴史へ 「40年のちのあとがき」より)。関西大学講師を経て1965年、急逝した酒詰仲男(東大卒人類学専攻)の後任として同志社大学専任講師となり、1972年には同志社大学文学部教授。同志社の顔とも呼ばれる名物教授だった。1999年に退任。2010年には愛知県春日井市に蔵書を寄贈し、春日井市立中央公民館に「森浩一文庫」が設立された。2012(平成24)年3月、永年の考古学・古代史への貢献により第22回南方熊楠賞を受賞する。2013(平成25)年8月6日午後8時54分永眠。


<転載、以上>

参考までに、昭和3年(1928年)の森氏は、終戦時に17歳です。同じ昭和3年生まれの文化人では、手塚治虫氏などが記憶にあります。

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物語プログラム(3):森浩一氏の想い