どこから、堀田善衛氏に近づくのか

この講座を始め、堀田氏をどのように語っていくか考えるために、昔に読んでいた堀田氏の著作を再度、紐解いてみました。
読んでみて、改めて思うのは、「堀田善衛氏を鳥瞰するなどということは中々できるものではない」ということです。

仕方なく、この入口講座は、その昔、自分が堀田氏を知ったきっかけから、話を始め、その流れに沿って追体験をしていただくことにしました。

堀田氏の著作を読んでもらうのではなく、私が体験した「堀田善衛現象」とでもいうものを知ってもらう。そんな流れでこの講座を進めていきたいと考えています。

STEP1:自分がどのようにして「堀田善衛」と出会ったか

参考図書にもある堀田氏、司馬遼太郎氏と宮崎駿氏の対談集「時代の風音」が私にとっての堀田氏の入口=入門書でした。

この対談集は、1992年にユー・ピー・ユーから単行本として刊行されたらしいのですが、私が読んだのは、文庫本(朝日文芸文庫)として、1997年(平成7年)に発行されたものでした。

当時、私は、40代で自ら広報技術の開発会社を立ち上げて、3年目でまだ、会社先行きもはっきりせず、中途半端な頃でした。自宅では、半身不随の母親の介護。忙しく、職場の代々木と小金井を往復して過ごしていたのですが、そんな中でもこの対談集と出会った時の興奮は、今も忘れられません。

司馬遼太郎氏の対談集として、手に取ったものの、堀田善衛氏と宮崎駿氏と三者の話に引き込まれて、一気に1日で読み終えました。確か、その後も、数回読み返した記憶があります。

なぜ、この三人の対談が組まれたのだろう?

司馬遼太郎氏を愛読していた自分にとって、不思議な感じがしたのは、「なぜ、この三人の対談?」といった疑問でした。この疑問は、第一章の「二十世紀とは」の最初の「書生として」という対談で宮崎駿氏の最初の一言で理解することができました。
この発言は、以下のようなものです。対談形式でなければ、本来、「まえがき」や「序文」とでも言ってよいものかもしれません。なぜ、この三人の対談が実現したかを説明するものとなっていました。
実は、宮崎氏が司馬氏と堀田氏との対談を希望して、実現したものなのです。以下にその宮崎氏の発言の一部をご紹介します。


<「時代の風音」よりの転載、部分>

宮崎
じつは、お二人にお話をしていただきたいと、私はずっと長いあいだ熱烈に願っていたのです。一つには、私は若いときから堀田さんの作品を読んで、どれほど理解していたかわかりませんけれども、ずいぶん影響を受けてきたつもりです。とくに『広場の孤独』(昭和26年、芥川賞)のラストで、日本脱出をやめて闇ドルを焼く主人公の姿に、自分もこの日本という好きになれない国とつきあうしかないんだ、と考えました。

それ以来の堀田さんの戦後の歩みは、私にとって最も誠実な日本人の生き方の手本でせひた。その堀田さんがスペインに行かれて、国家はなくなるだろうということを書かれたことで、肩が軽くなるというか、ほっとした経験があるのです。
同時に、司馬さんの本を読んでいまして、とくに『明治という国家』やNHKテレビの『太郎の国の物語』はビデオで何度も見て非常に感動しました。司馬さんのおっしゃっている道徳的緊張とか徳目(とくもく)というものに対して、ものづごく魅かれるものがあるのです。

お二人の違いというのは、カソリックとプロテスタントの違いかなと勝手に思ったりしているのですけれども(笑)


<転載、以上>

この一文を読んで、あの「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」「紅の豚」「もののけ姫」をこの世に送り出してきた宮崎駿というアニメの監督にとっての二人の方の存在の意味がどれだけ大きいものかを知りました。
「堀田善衛」という存在と同じくその生き方の羅針盤として「司馬遼太郎」という存在が自分にとってなくてはならない存在だった感じる宮崎氏。
このことが、司馬遼太郎氏に同じ感覚をいだいてきた自分と重なり合って、いままで知らなかった「堀田善衛」という存在を無償に知りたくなったのがその入口でした。この対談は、1992年に最初に単行本として発行されたので、対談時点では、丁度「紅の豚」が発表される頃で、私が文庫本で読んだのは、既に「もののけ姫」が発表された1997年頃でした。

STEP2:「堀田善衛氏の物語を知りたい」

読み終えて、最初に感じたのは、「なぜ、いままで堀田善衛氏を知らなかったのだろう」という自らの見識の狭さについての恥ずかしさでした。「こんな人がいるのだ!」という興奮から、数年で堀田氏の著作を初期作品の「広場の孤独」から、「方丈記私記」、「ゴヤ」などまで数冊を続けて、読みました。
その目的は、正に「堀田善衛物語」を読みたいという欲求だったように思います。「堀田氏がその時代をどのように生き、どのように考えたのか」というその人物の物語を知りたいと思ったのです。


そのための読書でした。「なぜ、この時期にこの著作が書かれたか?」または「この出版社から出版された経緯と関係は?」「それぞれの序文やあとがきに込められた作者の想いは?」など物語が立ち上がってくるための探検とでもいえる読書だったように思います。

次章以降は、その過程と流れを著作(読書はそれぞれにしていただくとして)紹介と一緒に追っていきたいと思います。

そうした際の参考としていただくために、以下にWikipediaからの堀田善衛氏の略歴を転載します。物語探検の参考にしてください。


<Wikipediaより、転載>

堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月7日 - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家、評論家


来歴・人物

富山県高岡市出身。父は富山県会議長の堀田勝文、母は大正年間に富山県で初めて保育所を創設した堀田くに。経済学者で元・慶應義塾大学商学部教授の堀田一善は甥にあたる。生家は伏木港の廻船問屋であり、当時の北前船の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。

1936年、旧制金沢二中から慶應義塾大学政治科予科に進学。1940年、文学部仏文科に移り、卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍、その方面で知られるようになる。

第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会が中国に置いていた上海資料室に赴任。現地で敗戦を迎える。1945年8月に現地日本語雑誌『新大陸』にエッセイ「上海・南京」を発表。敗戦直後、上海現地の日文新聞『改造日報』に評論「希望について」を発表。同年12月に上海昆山路128号にあった中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用され、現地日本語雑誌『新生』の編集と、現地中国語紙『中央日報』の対日輿論の翻訳を担当。1946年6月に現地日本語雑誌『改造評論』に「反省と希望」を発表。翌年12月まで留用生活を送る。12月28日(29日の夜明け)にアメリカ軍の上陸用舟艇で引き揚げ。上海での生活と留用体験について、陳童君『堀田善衛の敗戦後文学論−「中国」表象と戦後日本』(鼎書房、2017年)参照。また『新生』は中国国家図書館とアメリカ議会図書館に現存している。

1947年、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。アガサ・クリスティの『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。

1948年、処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。 1950年、10月23日に品川駅でかっぱらいをして逮捕されたと報じられたが、『高見順日記』によると、酔った上でのいたずらだったらしい。
1951年、『中央公論』に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(『文學界』1951年9月)も受賞作の対象となっていた。
1953年、国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年、日中戦争初期の南京事件をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。
1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。ソビエト連邦の首都モスクワでパキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと知り合ったのは1960年代である。ジャン=ポール・サルトルとも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解した後、1974年に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。
また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった。マルクス主義には賛同せず日本共産党などの党派左翼でもなかったが、政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。

1977年のフランシスコ・デ・ゴヤの評伝『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。

1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。
1998年、脳梗塞のため神奈川県横浜市の病院で死去。


<転載、以上>

<この項、続く>
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