「近畿と関東の違い」を何に見る?

森先生の「関東学をひらく」を読んで最初に驚いたのは、自分が中高等学校でならった弥生、奈良時代の歴史知識となんとも違った「関東の弥生、奈良時代への視点」だったのは、この著作が2001年に出版される前だったかもしれませんが、この著作の犠蓮峇愿豎悗量郎」にある「多摩川の手作りの布」だったことは記憶にあります。

弥生時代の関東の遺跡に以外に稲作にかかわる「石包丁」の出土が少ない点や、奈良時代などに特徴的に、布生産に関わる「紡錘車(ぼうすいしゃ)」が多い点の指摘がそれです。
なんとなく、調布という地名などから、租庸調として、中央に税として、布を収めていた地域がある程度の知識でしかなかったものが、この本で全く異なった視点を獲得できました。以下にこの著作のその項目を転載して、ご紹介します。


<「多摩川の手作りの布」より、転載>

(前略)

石包丁が関東の弥生遺跡に少ないことは、中期の大遺跡が少ないことだけが理由ではなさそうだ。結論を言えば、石包丁をさほど必要としない生業が盛んだったのではないだろうか。

そういう目で、近畿地方との違いを探すと、古墳時代、奈良時代、平安時代の紡錘車(ぼうすいしゃ)の多さが注目される。
しかも、奈良時代と平安時代の紡錘車には、人名などの文字を刻んだものの割合が高く、このことは近畿地方にはほとんど見られない。98年、埼玉県北本市の下宿遺跡で、仏像姿と「牛甘」の文字を刻んだ蛇紋岩製の紡錘車が発掘されたが、紡錘車の所有者かと思われる牛甘(うしかい)<養>と仏教の接点を見いだせる資料だった。
石包丁は弥生時代であり、これらの文字を刻んだ紡錘車は、奈良時代と平安時代という違いはあるものの、関東の地域的な特色をさぐる手がかりになる。紡錘車は、糸をつむぐのに使う道具で、カラムシ、麻などの主に植物性の繊維に撚りをかけるのに用いる。

見通しを述べると、谷水田や川沿いの低地での小規模な水田はともかくとして、関東平野とか台地など低平でしかも広大な土地の水田化は、古代には灌漑の制約があった。そこでは、畠が多く、商品作物として布の原料になるカラムシ(紵)や麻が栽培されていた。
『延喜式』によると上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵、相模の諸国が中男作物(ちゅうなんさくもつ、少丁の負担する郷土の産物)として、紙を負担している。紙の原料として麻のほかコウゾ・ミツマタも栽培されていたであろう。
弥生時代から平安時代までを、時代ごとに整理する必要はあるけれども、大きく関東の特色をとらえるとなると、畠の発達と、陸稲、麦、豆などの食糧となるものの生産だけではなく、布や紙などの原料の植物の栽培が盛んだったとみてよかろう。つまり農耕といえば、つい腹の足しになる食糧生産をイメージするが、それは実態ではない。

(攻略)


<転載、以上>

このような視点を以前の学校教育で教わったことがあっただろうか?と不思議な気分に襲われる。そして、当然のように今の学校教育ではという疑問につながっていくのは当然の流れだったように思います。

<この項 続く>
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