高校時代に受けた衝撃とその漢字学の記憶

最初に白川静氏の漢字学との出会いは、まったく勉強らしい勉強をしたくないと授業にも出ないで、本だけを読んで過ごしていた高校時代だったことを思い出します。

学校への途中に吉祥寺の本屋で何気なく、手に取った岩波新書の「漢字」。何ページかを立ち読みして、読み進むうちに、その場を離れられなくなってしまいました。
いままでの学校教育で受けた漢字の概念が崩れ去り、「なぜ、いままでこんなことが知られていたかったのか」と驚き、直ぐに図書館にこの本を探しに行きました。
以下にその著作の巻頭の第一章、「ことばと文字」を少し長くなりますが、転載して、ご紹介します。


<「漢字」(白川著、岩波新書)より、転載>

「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書はしるしている。
たしかに、はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかし、ことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。
神話の時代には、神話が現実の根拠であり、現実の秩序を支える原理であった。人々は、神話の中に語られている原理に従って生活した。そこでは、すべて重要ないとなみは、神話的な事実を儀礼としてくりかえし、それを再現するという、実践の形式をもって行われた。

神話は、このようにしてつねに現実と重なり合うがゆえに、そこには時間がなかった。
語部(かたりべ)たちのもつ伝承は、過去を語ることを目的とするものではなく、いま、かくあることの根拠として、それを示すためのものであった。
しかし、古代王朝が成立して、王の権威が現実の秩序の根拠となり、王が現実の秩序者としての地位を占めるようになると、事情は異なってくる。
王の権威は、もとより神の媒介者としてのどれであったとしても、権威を築き上げるには、その根拠となるべき事実の照明が必要であった。神意を、あるいは神意にもとづく王の行為を、ことばとしてただ、伝承するだけでなく、何らかの形で時間に定着し、また事物に定着して、事実化して示すことが要求された。それによって、王が現実の秩序者であることの根拠が、成就されるのである。

この要求にこたえるものとして、文字が生まれた。そしてまたそこから、歴史がはじまるのである。文字は、神話と歴史との接点に立つ。
文字は神話を背景とし、神話をうけついで、これを歴史の世界に定着させていくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。

もし、聖書の文をさらにつづけるとすれば、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった」ということができよう。文字はもと神と交渉し、神をあらわすためのものであった。そしてそれは同時に、神の代位者である王の権威の確立を、助けるものであった。
(攻略)


<転載、以上>

国語の時間に、歴史の時間に、古典の時間にこの重大な事実を生徒に教えてくれる教師がいませんでした。いや、私は、知らなかっただけかもしれませんが、少なくともほとんどいなかったことは確かです。
その後、友人のだれに、このことを興奮して、伝えても、「ふーん、そうなんだ。」と聞き流すだけだったことからも確かだと思えました。
この序文ともいえる第一章から、著作を読み進むうちにこの気づきは、確信に変わり、この白川静氏という巨人の言葉は、常に私を圧倒してきて、その後図書館にあった氏の著作を続けて借りることになりました。
その圧倒的な知の量の前に、いかに自分の知がなさけないほど、小さなものであるかを思い知らされました。ただ、悲しかったのは、その後、氏の字書三部作が刊行されたことを知って、読みたいと思っても、その価格ゆえに、毎回、図書館で必要な部分のみ、書き写すか、コピーするしかなかったことです。このことは、残念ながら、当用漢字しか教えな学校教育の現場である、今の学校図書館では、さほど変わらないことでしょう。

このカテゴリーの研究は、こうした記憶から生まれたものです。
また、この風土知研究のきっかけとなった「不土」を考える過程で、「風」という文字についての白川氏の「漢字」に出てくる「神話と呪術の章」にある“風のそよぎ”という一文についての説明もこちらでご覧いただけます。


<この項 了>
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物語プログラム(6):白川静氏の決意を知る