「この国のかたち(一)」:1986年から1987年までの連載シリーズで司馬氏が先ず、最初に課題提示しなければならないと考えたことを知る

戦後、司馬氏の「なぜ、日本はこんな国になってしまったのか?」という問いを発するのに最初に述べなければならないと考えた内容がこの(一)に並んでいます。
小説という方法の「自らの想いをつたえる」という作業に限界を感じてきた氏が考え抜いて、まとめようと思った「この国のかたち」とそれを検証していくための旅「街道をゆく」が60歳を過ぎてからの氏の決意を教えてくれます。

このコンテンツでは、その(一)に込められた「江戸期の日本から、明治維新という形で突き進んだ明治期に『日本の近代』を総括するという方法で、昭和の戦争へと向かった日本の過ち、その過ちの課題を戦後の今に継承し、警鐘をならす」という目的を明らかにしていきます。

私たちの世代がこの問いかけに答えていないと思うからこそ、こうした作業が必要だと思いました。

1)「この国のかたち(一)」の目次から

親カテゴリーで紹介した第一章の「この国のかたち」での内容(こちらをご覧ください)に続く、この(一)の章は、以下のようなものです。

2 朱子学の作用
3 “雑貨屋”の帝国主義
4 “統帥権”の無限性
5 正成と諭吉
6 機密の中の“国家”
7 明治の平等主義
8 日本の“近代”
9 尊王攘夷
10 浄瑠璃記
11 信長と独裁
12 高貴な“虚”
13 孫文と日本
14 江戸期の多様さ
15 若衆と械闘
16 藩の変化
17 土佐の場合
18 豊臣期の一情景
19 谷の国
20 六朝の余風
21 日本と仏教
22 日本の君主
23 若衆制
24 苗字と姓


第一章で「尊王攘夷」というナショナリズムの気分が生んだ幕末の流れが明治維新という現象を起こしたことを、さらにその外圧に恐れて、大きな改革を起こす日本的な歴史風土の特徴を述べたことに続く各章の流れは、この目次からもなんとなく、見えてきます。

*尊王攘夷を生んだ中国での宋学とその流れをくむ朱子学が江戸期の国学であったこと
一方で
*その日本の封建制から生まれた「名こそ惜しけれ」という世界的にも独自な思想の存在したこと
*尊王攘夷というナショナリズム、イデオロギーが江戸期の雄藩の下級武士によって、明治政府に持ち込まれ、日本の近代がやせ細ってしまったこと
*江戸期末期に実学として、近代の基礎ともなりえた地方の多様な知恵「荻生徂徠、安藤昌益、三浦梅園、富永中基、山片蟠桃など」を取り込まずにきたこと

*その結果としての40年という長い、昭和の敗戦までの日本が現出したこと
*これが本来の日本ではなく、海外からの外圧に恐れ、やせ細った立憲制という名ばかりの近代が至った戦争という悲劇とは何だったのか
*“統帥権”というマジックをゆるした日本の歴史を知る

という流れが(一)の概略です。
ある意味では、戦前からの日本の知識人が「西洋の文化と知識を取り込み、発展させたことが日本の近代」だとしたことへの解答とでもいえたものがこの「この国のかたち」だったのではないかと思えるのです。

目次の中の太字で示した「8 日本の“近代”」で河上徹太郎氏や小林英雄氏(1983年没)への答え、解答として、戦後世代の日本の近代とはを答える清算、ある意味では、前の世代の知識人たちが戦時中に提示した「近代の超克」への返事ともいえるものだったのではないでしょうか。以下にこの「日本の近代」の章から、司馬氏の想いを語る部分を以下に転載して、ご紹介します。


<転載、部分>

(前略)
『近代の超克』というのは、戦時中(昭和17年)の知識人に衝撃をあたえた意見群である。戦後、そのタイトルだけが独り歩きし、軍の戦時指導に調整的な役割をはたした意見群としてずいぶん評判をわるくした。

このタイトルは、河上徹太郎がつけたという。このタイトルのもとに、小林秀雄や亀井勝一郎、西谷啓治、林房雄、下村寅太郎らの諸氏が参加した。
私は、当時無知な学生だったから、「文学界」所載の特集を読んでも、高踏すぎて、意味が良くわからなかった。
戦後、その一部を読み返した、愛をこめたおかしみを感じた。
近代とはモノの質量を大衆レベルで比較する精神だが、そのことは、一行も出ていないのである。
モノを比較してハダカの価値を見てしまう精神など、中世以前の精神からみれば、まことにザッカナイものである。そういうガラの悪さがすこしもでておらず、中世貴族の高雅ささえ感じてられてしまう。

論文篇のなかで下村寅太郎が
“我々が、「近代」と称しているものはヨーロッパ由来のものであり、少なくとも今日それの超克が問題にされる「近代」は、その外には存在しない”
と書いている。また、河上徹太郎が、座談会篇のなかで、
“僕の考えじゃ、ヨーロッパの19世紀のの分析というようなことから入っていくと結局吾々はヨーロッパの文明に依って教育されて来たので”
と受けた教育を中心に近代を述べている。
たとえば、“三八式歩兵銃を何十万挺ならべたって、世界を相手に戦争はできませんよ”といった具合のガラの悪さでもってたれも近代を語っておらず、まことに痛ましいほど品が良く、教養的なのである。

そこへゆくと、戦後のガラの悪さというのは、江戸の“近代”に対応する徂徠も中基も蟠桃もあるいは竜馬も、とても戦時中に生きることはできなかったろうが、戦後には生きることができた。
明治国家が買いに買った“近代”がどうゆうものであったかが、昭和17年の『近代の超克』が証明してくれるともいえる。


<転載、以上>

『近代の超克』を語った戦前世代の彼らが没した時期に、司馬氏など、戦争を体験した次の若い世代からの解答(まだ、誰もが成しえていなかったこと)が「この国のかたち」の重要な一部だったようにと思えるのは、私だけでしょうか。

もし、そうだとしたら、それの司馬氏の「この国のかたち」という解答に我々の世代はなんと答えるのかがなにより大事なのではないのでしょうか。まず、氏の解答を理解し、それに対峙することから、それがこのカテゴリーの目的です。


次の項では、さらに「近代の超克」とは何だったのか、そして、それに対する司馬氏の答え「江戸の近代」とはを考えていきます。


<この項 続く>
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