「21世紀の日本の特徴的な先駆性」とは何か?

以下に、報告書よりの、1.先駆性を活かすの部分を転載します。


<転載部分>

1.先駆性を活かす

21世紀を動かす原動力は、個人であり、個人の先駆性である。創意工夫にあふれ、リスクを恐れず未知の世界に挑戦し、使命感と情熱をもって最先端の仕事を成し遂げようとする個人の先駆性がモノを言う。
それを育てるには、社会に先駆性を発揮させ、それを歓迎する気風と仕組みが根付いていなければならない。

残念ながら、日本の社会には個人が先駆性を発揮するのをよしとしないきらいがある。日本人のもつ絶対的とも言える平等感と深く関わるが、「結果の平等」ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、“出る杭”は打たれ続けてきた。「結果の平等」を求めすぎた挙句、「機会の不平等」を生んできた。

21世紀の日本では、先駆性を持ち創造的なアイデアを持った人々をもっと正当に評価するようにしたい。そうした人たちの挑戦と活躍で未来が開けるからである。その過程では、リスクを負って先駆性を発揮した人々の努力が、十分に報われるようにすることが肝心である。「結果の平等」に別れを告げ、「新しい公平」を導入するべきである。個人の能力や才能には差異と格差があることを前提とした上で、業績や将来性を評価する「公正な格差」ともいうべき考え方である。

そして、起業家精神と冒険魂を尊び、挑戦者に機会を与え、個人と社会がリスクを取る精神を培う、そうした創造性の原液の貯水池をつくらなければいけない。個人が自分のビジネスを立ち上げる環境をもっと整える必要がある。
そうした機会は誰に対しても平等に保障されなくてはならない。「機会の平等」が保証されなくてはならない。同時に、「やり直しがきく」仕組みをつくることも重要である。一度の失敗でその後の人生を棒にふるようなことになっては挑戦しようと思ってもくじけてしまうかもしれない。かと言って、挑戦してもしなくても同じということでは無理して挑戦するのはやめようと降りてしまうかもしれない。このバランス
が難しいところだが、継続学習・継続訓練など、失敗した個人がもう一度自分の能力を高めて再挑戦できる機会を広げることが大切だ。


<転載、以上>

そうして、こうした日本の先駆性として、実行すべき計画として「教育の転換」と「グローバル・リテラシーの確立」を掲げておられます。以下、その2項目をご紹介します。まず、「教育の転換」とはどのようなことを意味しているのかをご紹介します。

<懇談会報告書よりの転載、部分>

(1)教育を転換する

個人と社会の潜在力を引き出し、先駆性を育て、伸ばす教育を重視するには、教育の均質性と画一性を打破しなければならない。

そのためには広義の教育、つまり人材育成のあり方を根本から問い直すことが不可避である。明治以降の近代化のためにつくられた今の制度の骨格をそのままにし、それに手を加えるといった発想では事足りない。

広義の教育における国の役割は二つある。
一つは、主権者や社会の構成員として生活していく上で必要な知識や能力を身につけることを義務づけるものであり、
もう一つは、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへのサービスである。
つまり、「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」である。

現在の日本の教育では、この二つの教育が混同され、授業内容についていけない子どもには過大な負担を与えながら、それを消化してより広く好奇心を満たしたい子どもには足踏みを強いる結果を招いている。
そこで、21世紀にあっては、これまで混同されてきた二つの教育を峻別し、「義務としての教育」は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、「サービスとしての教育」は市場の役割にゆだね、国はあくまでも間接的な支援を行うことにすべきである。

例えば、初等中等教育では、教育の内容を精選して現在の5分の3程度まで圧縮し、週3日を「義務としての教育」にあて、残りの2日は、「義務としての教育」の修得が十分でない子どもには補習をし、修得した子どもには、学術、芸術、スポーツなどの教養、専門的な職業教育などを自由に選ばせ、国が給付するクーポンで、学校でもそれ以外の民間の機関でも履修できるようにすることが考えられる。

教育は、家庭、地域、学校の三者の共同作業である。しかし、近年、家庭と地域の教育機能が目立って低下してきた。家庭におけるしつけや訓練の重要性を改めて共通認識として持つことが必要である。子どもの教育、行動についての第一義的な責任は保護者にあることを明確にすべきである。

高等教育では、世界標準で仕事ができる人材を輩出するために、大学などの教育機関自体の国際競争力を向上させることである。そのためには、機関の設置や運営をできるだけ自由にし、教育・研究の場の国際化を含め、競争的な環境をできるだけ取り入れていくことである。例えば、大学・学部などの設置規制の撤廃、教育・研究活動についての業績評価、授業や研究言語としての英語の使用、外国人教員の積極的採用
などが考えられる。

また、メディカル・スクールやロー・スクールなど、医師や弁護士などの専門的能力を高めるための教育機能を充実させる必要がある。
日本への留学生は、1990年代に入って伸びが鈍化し、さらには一時的に前年に比べて減少する傾向にある。21世紀初頭に受入人数を10万人にしようとの計画は実現不可能である。これについては多くのことが言われ、またいくつかの環境改善策もとられてきているが、根底には日本の高等教育の国際競争力の低下と魅力の減退がある。そこに抜本的なメスを入れない限り、留学生政策は実らないだろう。


<転載、以上>

非常にわかりやすく、その具体的な実践の方向性も的確に提示されています。
ただ、家庭教育と地域教育の低下を指摘した上で家庭教育については、保護者への要望を述べていても、地域教育については、その実態と展望をできないためか、ほとんど触れられていません。この後の章で、どのように地域教育の課題を提示できるのか、気になるところです。
さらに、第2の「グローバルリテラシーの確立」でも同様です。「国際競争力」や「世界で通用するために」という点では、その必要性を述べても、国内における交流、文化的な違いによる課題には触れられていません。

以下に転載して、ご紹介しますが、次章以降での提示ができているかが課題でしょう。序説で河合氏が述べられたイスラム文化との接点、交流が課題という認識は、この懇談会での提言では、まだまだ、提示できるところまではいかなかったというのが実態のようです。


<懇談会報告書より、転載部分>

(2)グローバル・リテラシー(国際的対話能力)を確立する

グローバル化と情報化が急速に進行する中では、先駆性は世界に通用するレベルでなければいけない。そのためには、情報技術を使いこなすことに加え、英語の実用能力を日本人が身につけることが不可欠である。

ここで言う英語は、単なる外国語の一つではない。それは、国際共通語としての英語である。グローバルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。
もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶことも大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。

それには、社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。

長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする。まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。

これは単なる外国語教育問題ではない。日本の戦略課題としてとらえるべき問題である。


<転載、以上>

日本文化について述べる文化センターがあえて、先駆性という課題で世界的な共通語としての英語教育の必要性を述べているのです。コンピューター言語と同様に、あえてコミュニケートするための手段として提示しているので、アメリカ文化を享受せよとしているのではないことは理解できます。

それぞれの詳細展開は、以下のリンクから、さらに詳細な報告書のコンテンツへの項目をご覧ください。


<この項 了>
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