「日本の近代」で提示した「江戸の近代」と司馬氏の戦後への視点

この項では、司馬氏が「日本の“近代”」で「近代の超克」を「ガラの悪さでもってたれも近代を語っておらず、まことに痛ましいほど品がよく、教養的なのである」と表現した対極に「江戸の近代(荻生徂徠、富永仲基、山片蟠桃など)」とは何だったのかを知ること。

さらには、「戦後に生きることができた」と表現した意味をしっかりとらえなおし、江戸の近代と明治維新で輸入したヨーロッパの近代からの新たな現代の日本を見つけ、再整理していくことをしてみたいと思います。

1)「江戸の近代」を知る

先ずは、司馬氏の指摘した江戸の“近代”を紐解いていきます。最初に「この国のかたち(一)“江戸の多様性さ”」で司馬氏の言葉で語った江戸の近代を以下に転載して、ご紹介します。
この章で、司馬氏は、いかにこの章が司馬氏にとって「戦後の日本への提言」「戦後日本への不安・落胆」
であったのかを最初に以下のように語った上で、江戸の多様さを説明されます。この一文は、今でもその意味するところを痛みとして感じる私たちがいることを思い出させてくれます。「何も変わっていないのかもしれない。」といわずにはいられません。


<「江戸の多様さ」より、転載部分>

私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。

かといっていまの私どもの社会や文化、あるいは精神が、戦後社会を父母としていると言われたら、多少口惜しくもあって、これは一種の二律対立感情(アンビバレンス)といっていい。

あたりまえのことをいうようだが、戦後社会は敗戦によって成立した。
それより前の明治憲法国家は、わずか四、五十年で病み、六十年を満たずしてほろんだ。

その末期については、すでにのべた。くりかえすと、国家の腹のなかに統帥権(というよりその夢幻的な拡大解釈と社会化、さらにはそれによる国家支配)という鬼胎(きたい)を生じ、国家そのものをほろぼした。

私など、その鬼胎の時代から戦後社会にもどってきたとき、こんないい社会が自分が生きているうちにやって来ようとは思わなかった。それが、“与えられた自由”などとにねくれては思わず、むしろ日本人の気質や慣習に適った自由な社会だと思った。焼跡と食糧難の時代とはいえ、日本人たちの気分はあかるかったように思う。

しかhし、その社会も成熟しはじめたいまとなれば、それがこんにちの私どもを生んだ唯一の母胎であるといわれれば、そうでもないといいたくなる。

いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。または文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。
価値の多様状況こそ、独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走り続けているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。

そういう不安から、この稿を書きたい。
たとえば、こんにちの私どもを生んだ母胎は戦後社会でなはく、ひょっとすると江戸時代ではないか、と考えてみてはどうだろう。


<転載、以上>

そして、戦後社会の衰弱への助けを求めるかのように明治時代にはその継承がされなかった二つの要素「江戸期に誕生した合理主義思想」と「江戸諸藩の多様さ」こそがいかに大切なものだったかを以下にように続けて、説明されます。最初その多様さの大きな要素として、商品経済が生んだ合理主義思想があることを説明されます。しかし、この内容は、日本の“近代”でも説明しているので、この章では、簡単に済ませ、もう一つの要素であるより「江戸諸藩の多様さ」について主に語られます。

<「江戸の多様さ」より転載、部分>

私は、江戸時代の商品経済の盛行が、主として商人や都市付近の農民だちのあいだで合理主義思想をつくりあげさせたと思っている。

それら、社会の実務層(農・工・商)から思想を吸入したひとびととして、まず新井白石(1657〜1725)や荻生徂徠(1666〜1728)がいる。次いでかれらよりもいっそう合理的で独創的だった富永仲基(1715〜46)、海保青陵(1755〜1817)、あるいは山片蟠桃(1748〜1821)など人文科学的な思想家が出た。

ただし、この稿では、そういう思想的なことはさておき、幕府と諸藩といった武士階級のことについてふれたい。


<転載、以上>

そして、江戸時代の幕藩体制が生んだ諸藩の多様さを「武士階級」に限って、その例を挙げていかれます。

<転載部分>

三百近くあった藩のそれぞれの個性や多様さについてである。この多様さの面のみ音量を上げてみると、江戸期は日本内部での国際社会だったのではないかとさえ思えてくる。
むろん、文化の均一性がないわけではない。礼儀作法、服制、結髪などはほぼ一種類だった。
文章表現の面でもそうで、公用・私用をとわず、藩によって差異があるわけではなかた。
武家の必須の遊芸として謡曲をみにつけることも、蝦夷地の松前藩から九州南端の薩摩藩にいたるまでかわりがない。とはいえ、この種の文化的均一性は、宗教改革以前のヨーロッパ諸国の均一性程度のものだったのではあるまいか。

藩法となると、多少藩によってちがう。しかし、小異であって、大きくは同じといっていい。

また、幕府の性格についていうと、たしかに中央政府に似た機能をはたしていた。しかし、厳密にいえば、徳川家は大名同盟の盟主にすぎず、その行政機関である幕府機関は、多少の誤差を甘く見ていうとすれば、自領の行政をするだけに過ぎなかった(但し、対外的には日本国政府だった)。

ところで、幕府の司法権は藩内には及ばなかった。


<転載、以上>

と諸藩の均一性を上げた上で、「教育と学問」では多様だったことをそれにひきかえ幕府に学校といえるものがなかったことも含めて、大いに多様だった例として、薩摩藩や佐賀藩を取り上げています。
その他の小藩も藩の教育を取り上げ、そのことが明治統一期の活力や多様性を生んだと以下のように評価され、この章を締めくくられています。江戸時代に生まれた「合理主義思想」と「地域での教育」は、現代での地域社会を模索する上でももしかしたら、重要な日本の遺産なのかもしれません。


<転載部分>

また、江戸期は、大藩より小藩のほうが精度の高い学問をした。江戸末期の蘭学をになったのは、多くは越前大野、石州津和野、肥前宇和島というような小藩であり、その出身者だった。

このように士族の教育制度という点からみても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さがー少し抽象的な言い方になるがー明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる。


<転載、以上>

<この項、了>
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