どんな指導者が現れ、消えていったか知ることで「日本文化における指導者を模索する」ために

「この国のかたち(一)」の大きな主題の一つに「一体どんな指導者なら、日本文化、日本的なコミュニティを正しく導くことができるのだろう」ということがあるような気がします。
この国のかたちで昭和の「統帥権」が起こした戦争の悲劇を見ていく中で、「一体、いままでの日本をけん引してきた指導者となどんな特徴があったのか」また、「どんな指導者なら、日本文化・コミュニティを正しく導けたのか」という疑問を司馬氏は投げかけているように思います。
そのために戦国から、江戸時代、明治へと日本を引っ張ってきたという独裁者とでもいう例「戦国の信長」「江戸時代の井伊直弼」を上げ、さらに一般論としての「日本の君主」というもののタイプを3つの章で述べています。以下にその鍵となる部分をご紹介します。詳細は、実際の章を読んでみていただけたらと思います。

最初は、戦国期の信長です。信長はどんな指導者でなぜ、戦国の覇者となったか、どんな問題を抱えていたから、最終的には日本を統一できなかったかを以下のように語られています。


<「この国のかたち(一)・11信長と独裁」より、転載>

(前略)

信長は、すべてが独創的だった。

いっさい資料はないが、その生涯を巨細にみると、かれは、−中国の皇帝性のようなー中央集権・郡県制に似た体制を夢みていたのではないかと思えるのである。

むろん、夢想である。当時は封建の世で、武家が武士をつかって天下をとるとき、この時代、封建制をとるしか考えられない。

大将たる者は、配下の武功を吟味して領地をあたえ、その領地の“王”にしてやる。武士たちは、それによって励む。もともと武士とは知行地(所領)を持つものをさすのである。

どの大名のもとでも、家臣たちが大将の陣触れに応じて戦闘序列につくとき、所領の大小に応じて、自前の(子飼いの)家人をひきい、自前の米で参加する。

織田勢力の構成要素にも、むろんそういう面は入っている、たとえば、秀吉は、美濃攻めのあと、三千貫の領地をもらっているらしいのである。ただ、秀吉自身、その地の行政をおこなったふしはない。織田家という“官”が代行したようである。

ともかくも、信長は知行地性を併用しつつ、独自の給与法を用いてように思える。秀吉や光秀といった高級職員をふくめ、多くがある時期までほとんど“官”の蔵米(いわば現金)で活動していた。
そういう面をことさらに強調すれば、中央集権(郡県制)にちかいようにさえ思える。織田家ではその勢力下の米を一カ所で管理し、行政も専門の代官が行い、前線の武士は一種の給与生活者のようになっていたかのようである。
といっても最後までその式でやれるわけでもない。想像するに、信長も、一同に気を持たせるために、
ー安定期にくれば封地をわかとう。
などと洩らしていたかもしれない。しかし、本音はどうだったろう。

(中略)

信長の末期、これもたしかな資料のないことながら、かれは光秀から丹波を召し上げて他に大領を与えることを光秀のほのめかしつつ、毛利攻めの応援を命じたかのようである。信長としては光秀を官僚としてあつかっているのだが、封建主義の光秀にとては、拠って立つべき領国が消滅する。

その結果として本能寺の変がある。

日本史は、独裁者につよい反撥をもった歴史といっていい。
この稿で、そのことを書こうと思いつつ、つい面白くなって信長のことで紙数をとりすぎた。
ついでながら、ここでいう独裁者とは、権力者にして強烈な構想を単独でもつ者のことをさす。つぎは、井伊直弼についてふれたい。


<転載、以上>

司馬氏は何度も「資料にはないが、」と繰り返し、あくまで自分の創造、推論であることを強調しながら、それでも日本文化にみる独裁者への反撥という風土、傾向を述べたかったようです。それは、次の井伊直弼について述べた「12 高貴な“虚”」という章でも再度、以下のように繰り返されます。ただ、司馬氏は、章の最初に「この項は、独裁は日本人の気質にむかないということにつきーとくに幕末の大老井伊直弼にふれつつー書くつもりでいた。
しかし、机にむかうと気が変わってしまった。しばらく、このことは片寄せておくことにする。」
とことわっておいてから、薩摩の「てげてげ」という上に立つ者が求められる性格について、話を進めます。


<「この国のかたち(一)・高貴な“虚” より転載」>

大概大概(テゲテゲ)という方言が薩摩にある。テゲだけでもいい。
「将たる者は、下の者にテゲにいっておく」
そういう使い方をする。薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を統御する上で、倫理用語ともいうべきほどに大切なことばだった。
上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとしてさしずはしないのである。そういう態度を、テゲとか、テゲテゲとかいった。

(中略)

このことは、人物の名をあげて説明するとわかりやすい。

戊辰戦争のときに薩軍をひきいた西郷隆盛や、日露戦争のとき野戦軍の総司令だった大山巌、または連合艦隊を統率した東郷平八郎という三人の将領(いずれも薩摩人)の共通点をみればわかる。かれらはみなテゲを守った。

このことは薩摩の風土性というよりも、日本人ぜんたいの風であるらしい。誤解をおそれるのだが、テゲには、いいかげんとかちゃらんぽらんといった語感はない。

(中略)

テゲであるべき人物は、人格に光がなければならない。人格は私心がないことが必要で、それに難に殉ずる精神と聡明さが光源になっているものだが、それとはおよそ逆な人間ー自己肥大した人格ーが首領の座につくと、日本人は神経的に参ってしまう。

(中略)

どういうことなのか、日本人は、老荘を学んだわけでもないのに老荘的なところがあって、虚(無あるいは空といってもいい)を上に頂きたがる。また虚の本質と効用を知っているようでもある。虚からすべてがうまれるとも思っている。大山巌の例でいうと、マスタープランが作動しはじめると、大山はみずからを虚にした。実際、そこからすべてがうまれた。薩摩におけるテゲとは、そういうものだということを大山はよく知っていたのである。

児玉は、大山という虚をかつぐことで、チューブをしぼりだすようにして精魂をつかいはたした。戦後ほどなく死ぬ。

その児玉が、他の場面で(台湾における後藤に対し)虚であったというのは絶妙な日本的光景といえるのではないか。
ちょっと愉快でない余談になるが、この組み合わせの成功が、後世、人を得ず単なる型になった。

その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型をふるまい、本来自分のスタッフにすぎない参謀に児玉式の大きな権能をもたせた。この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なのどに専断と横暴ー辻正信をみよーのふるまいをした。それらは太平洋戦争史の大きな特徴にもなっている。


<転載、以上>

こうして、司馬氏の話は、江戸期の井伊直弼から、思わず、昭和の太平洋戦争の話になってしまいます。司馬氏の統帥権というものへの思いのたけが露出した形になってしまうのも、いかにこのことが日本文化での指導者の課題であるかを痛感していたからだということがわかります。

このサイトの河合隼雄先生の「中空構造の日本の深層(1981年刊行)」での同じような組織論とも通じる、こうした司馬氏の日本的組織論は、司馬氏が河合隼雄氏の著作を好んで読んでいたという事実との重なるのかもしれません。この国のかたち(一)が1986年から87年に続いた連載だったことを考えるとそんな気がします。この組織論についてのこのサイトでのコンテンツは、こちらからご覧いただけます。


<この項、了>

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