この巻での横尾氏の創作論の位置づけを知る

巻の最初、序文のような役割を果たすと同時に全体の基調を支配するのがこの横尾氏の創作論のようです。そのためか、その論の最初にある以下の表現を見ることができます。


<肉体と創造より、転載>

『現代日本文化論』の「芸術」の巻の編集を河合隼雄先生と行なうことになってからというもの、日に日に気が重くなっています。「岩波」と聞いただけで頭痛がするし、そのくせたまにはこういうところで責任をずしーんと感じる、何か重い役割をマゾ的に味わうのも悪くないかと思って引き受けたのが、この憂鬱な気分の原因です。
そんなわけで自信などあろうはすがないけれど、とりあえず生理的に湧き上がってくる印象を、極力ぼくの道具としての肉体を通して語らせることにします。


<転載、以上>

この表現からも、横尾氏は大きくこの論の編集に関わり、全体の構成にも大きく寄与している可能性が見えてきます。もちろん、岩波の当時の編集者の方などに実際を聞いてみなければ、はっきりはしません。
この横尾氏の芸術論が重要な全体の基調を成すことが予想されるのでそうした視点で読み進んでいきたいと思います。

以下、その横尾氏の創作論の概略、その鍵となる論旨を見ていきます。この創作論は、随筆のように自分の創作に関わる思いなどを並列して述べているように見えて、幾つかの鍵が見えてきます。以下にその重要な幾つかの部分をご紹介します。先ず最初は、ゴーガンの画集を引き合いに出して、その創作が「鎮魂」というものであるとして、以下のように述べられます。


<肉体と創造より、転載>

鎮魂というと死者の魂を鎮めることがだけれども、生きていく人間の魂や心も鎮める必要もあり、さらに人間だけはなく自然界をも鎮め、さらに天も鎮め、地も鎮め、我をも鎮めてしまおうとする、そんな大きい役割が芸術にはあるんじゃないか、いやあるように思うんです。

(中略)

ぼくたちは肉体によって存在させられているにもかかわらず肉体感覚が希薄なので、創造が芸術というとすぐ精神だと思ってしまう。けれども、ここんとこぼくは精神よりやっぱり肉体が大事だということをいろんな場で気づかされているように思います。


<転載、以上>

画家として、始めたころは、「精神」、「何を描くか」などに重きを置いてきた自分が現在は、より「肉体的なものを追い求める」ようになったこと、二十世紀から次の世紀への視点として「知性から霊性へ」という横尾氏の思いが語られます。

<転載部分>

直観とか閃きはどうもインチキ臭く思われて、理性の外側に属するもの、非合理的なものとして排除したのが二十世紀の知性でした。ゴーガンが「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」と問いを投げかけたけれども、彼は答えを出しただけでもなさそうです。死を覚悟しながら描いたその魂の作品は、魂の叫びとして観るものに何か強い衝動と波動を伝えているのかもしれません。
このゴーガンの問いを解くためには神を設定しないと解けないような気がします。神を設定するということは肉体を獲得するということから生じる想像力のような気がします。「神は死んだ」という思想からは絶対ゴーガンの問いは解けないように思うんです。

(中略)

芸術の創造力は、自我だけではない、何か言葉ではないいいつくせない力と衝動によって身体の奥から湧き上がってくるーそれは内部からの強烈な印象とか直観とか閃きとぼくは呼ぶんで背うが、−こうした道のいい知れぬ力によって創造がなされる時、ぼくはこの霊感の源の存在を肉体が知覚するし、少しばかりの感謝の気持ちが湧くのです。
人間が自力だけではなく、何か別の力によって生を維持させられているように、創造も何か別の力によって援助させられていると感じるのです。そんなわけで芸術は誰のためでもなく、霊感の源泉はの返礼かなとも思ったりするのです。


<転載、以上>

この後、横尾氏は、高橋たか子氏の「放射する思い」というエッセイ集を取り上げて、女性原理と男性原理という視点から創造力というものを語ります。高橋たか子氏は、文学者・高橋和巳夫人で、その後、81歳(2013年)まで作家として活動されました。夫がいかになさけない男で、文学者とはこうした妻の支えなしには成り立ち得なかった存在であるかを書き残した女性でもあり、ほんとうに当時は、考えさせられものです。悪妻といわれもしましたが、私には、多くのことを教えてくれた存在でもあります。1997年、ちょうどこの「芸術と創造」が刊行されたころには、「高橋和巳という人ー二十五年の後に」を刊行されています。さらにこの高橋たか子氏のエッセイ「放射する思い」の中で横尾氏の創作過程を記述した部分があることを、そして、それをより詳しく説明しましょうとして、横尾氏は当時の横尾氏の創作過程をかなり具体的に記述してくれています。その貴重な創作の一端を見ることできます。この部分は、非常に興味深いものなので、以下にそうした内容も含めて、転載して、ご紹介します。機会があれば、氏の当時の作品を前に読んでみたいと思えるものです。

<転載、部分>

河合隼雄先生のご専門ですが、一人の人間の中には男性原理と女性原理が存在していることをユングによってぼくは知りました。
芸術作品を生む、という言い方はよくいったと思います。生む以上はそこに男女が存在しなければならないからです。芸術家の中の男性原理と女性原理が結ばれた結果、生まれた子供がすなわし芸術作品です。子供の出来、不出来はその創造者の愛の純度によって異なるのかもしれません。女性原理は霊感の受信器の役目、男性原理は女性原理が受信した霊感を創造に変えて社会に発信する役目があります。最近の観念的な芸術にはどうも女性原理が関与していないように思うんですが。つまり、肉体的でないというわけです。

(中略)

この後が横尾氏の創作の過程を説明する部分です。

この本の中で高橋さんは、「人間の謎をめぐって」と題して、埴谷雄高氏に公開質問をされています。そこにぼくのことが書かれていたのです。というよりはぼくのインタビュー文が再録されていたのです。1993年8月12日付の『朝日新聞』の夕刊記事です。

ぼくの話の内容は、連続的に滝の絵を描き始めた、そしたら滝の夢はピタッと終わってしまった。それはきっと夢の神様が夢を通して送っていたメッセージを、ぼくが絵にするという現実によって、神様の意志が伝わったと安心されてもう二度と滝の夢を見せる必要がなくなったと判断されたような気がした。そして最近は滝の絵は自分の意志もさることながら、何か、誰かに描かされている、ぼくはその見えない存在の肉体の道具であるような気がする、それによって自我が薄れている分、無心になれるし、スッと浮かんでスッと描ける。
まあこんな内容の文章が引用されていて、高橋さんもまあ同じような感覚を味わっておられることが記されているが、埴谷雄高氏に「小説・音楽・絵画など芸術はすべて、同じところから現れてくるのではないでしょうか?」という質問をされているのです。その後、埴谷氏がどのような回答を寄せられたかは、その文が掲載されている本(雑誌)を読んでいないのでわかりませんが。
埴谷さんの回答はともかくとして、僕の経験をこの場を借りて高橋さんにできるだけ具体的にお伝えしたいと思います。

先ず、最初に描くという意志が創造をかりたてる。
この時点では、主題も様式も決定していない。だけど前作の影響下から完全に自由でないように思う。
ぼくは常時、150号大のペインティングを制作しており、完成に近づく頃、次作のイメージのようなものが、座禅時(座禅の経験があるので)の雑念のように次から次へというわけでなく、ポツン、ポツンと複数のイメージが、映像で浮かぶ。
このイメージはぼくの全く知らない事柄ではなく、普段関心のあるものであったり、深く記憶にとどめているものが中心です。だけど、あまり相手にしないことにしている。

1点が完成するとなるべく早く次作に取り掛かるようにしている。
その間にイメージを固めるのだが、全体像が完全に想像できなくても、何か核になるモチーフがぼくの中で確かなものとして形成さえるのを待つ。
そんなに時間のかかるものではない。
その中心になるモチーフが決まるととりあえずそれを画面のどこかに描く。
大きさや色彩はその時に思いつくままにまかせる。
前作の延長で描く場合もあるが、描く段になって前作の影響下から完全に自由であることもある。
ぼくの場合、コンセプトを創造の中核に位置付けている作家と異にしているので、かりに毎回異なる様式の作品が創造されることに全く抵抗がない。生理に従っているので、生理がその都度変化するのと同じように様式もその主題に従って変化する。様式の変化に応じる手法は今までの経験と知識が総動員される。

この時点で方向性がほぼ定まっているが、その概念が確かな直観によるものかどうかを吟味する必要がある。



<転載、以上>

そして、この直観を重要視し、直観が変化を余儀なくされる場あるときも、直観の第二波が誘発され、やってくることで解決する場合のあることを述べられています。曰く「理性の判断は概念的思考を基準とするから、思い込みや都合のいい思弁に左右されないとも限らない。その点本性は何にも影響を受けないので自信が持てる」ということのようです。そして、直観を補っていく方法として、以下のような普段の作業についても語られています。

<転載、部分>

ぼくは普段から本や雑誌で、気になる映像や図像を発見するとふせんをつけたり、どんどん切り取って、スクラップている。ただ、見たり記憶するだけでは忘れてしまうので、ふせんを付けたりスクラップする行為を通して記憶の肉体化を図るのだ。また、カメラは常時携帯しているので生理現象として撮る。資料のためでも発表のためでもなく、これも対象の記憶を肉体化するためだ。「見る」ことの協調である。このような行為が絵の制作時に無意識の働きとして現れてくることになる。

<転載、以上>

そして、さらに肉体化の難しさを自分の記憶できなかった体験の発見とともにポーの小説『盗まれた手紙』の一文とともに以下に転載したように語られ、肉体化が今の自分の大きな課題だとされて、この文を結ばれています。

<転載部分>

(前略)

そんなぼくの肉体を嘲笑うかのような小説を今日読まされました。ポーの『盗まれた手紙』の中に次のような文章がありました。

「往来の看板やビラと同じでね。あんまり目立ちすぎて、かえって目につかないってことがあるんだねえ。この場合の肉体的見落としはね、ちょうどあの、あまりにもわかりきった明々白々事のために、かえって気づかれずに過ぎてしまうという、精神的不注意の場合と全く同じわけなんだ。」

この一文は、生き方と創造を何か決定するような重要な意味を持っているように思えてなりません。肉体は常に全開していると思っていたら、とんでもないのです。
この場合、視覚が死角になっていたわけですが、肉体の全感覚が時には麻痺して沈黙した場合、精神だけでいったい何ができるのでしょうか。ぼくが語ろうとしてモタモタしている肉体の問題は、男女の肉体の差ではなく、生命としての肉体機能です。魂と離反してしまっている現代人の肉体感覚です。


<転載、以上>

そして、最後に「とにかく、肉体を獲得することがぼくには先決です。そして、肉体を通した創造が一日も早く行えることを自分に求めるだけです。」と結ばれています。
この横尾氏の文については、河合氏があとがきとなる「現代人と芸術」でも触れられていますので、別途、同じ河合氏の「芸大人と芸術」編の中の別項でさらにこの内容を展開できたらと考えています。


参考資料の購読に関する注:

高橋たか子さんの著作は、「放射する思い」も含め、かなりの数のエッセイや小説を小金井市立図書館でも所蔵しています。
横尾忠則氏のエッセイもかなりあります。この論文以後のエッセイでは、2000年に出版された「晴のち晴」を読むことができます。
また、河合隼雄氏との対談「夢には理性がある」は、「芸術ウソつかない」という横尾忠則氏の対談集で読むことができますが、この本は、武蔵野市立図書館でないと所蔵していません。そちらで借りて読んでみてください。


<この項 了>
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