佐藤文隆氏の「問われる科学者のエートス」から、近代科学への距離を知る

この論文集の序論は、この論文集を河合先生と共同編集されている理論物理学者の佐藤文隆氏の「問われる科学者のエートス」です。

この論文が最後のあとがきにあたる河合先生の「科学技術のゆくえ」とセットでこの論文集の構成内容全体を整理されています。

まず、その道しるべがこの佐藤氏の序論です。この序論を転載する前に、事前学習としてタイトルにある「エートス」について、以下にご案内しておきます。その上で佐藤氏の序論をご紹介します。

タイトルにある「エートス(ethos)」。その意味をご存じですか?
簡単に以下にアリストテレスの説明をご紹介しておきましょう。


<アリストテレス『ニコマコス倫理学』より、転載>

エートスは、住み慣れた場所や故郷のことであり、そこから派生する集団が遵守する慣習や慣行であり、そのような慣習によって社会の成員によって、共有されている意識や実践のことをさす。エートスは集合的心情は、その当該文化の人たちの情動経験などというふうにも訳される。エートスのラテン語訳 こそがモーレス——モスの複数形——でありモラルの語源なのである。これは、我々がもつ道徳的感情は、その共同体のモラルの遵守とそこからの逸脱から発生しているのだという説明の論理である。

<転載、以上>

ここでは、簡単にモラル、科学分野におけるモラルとして理解して、おきましょう。ただ、モラルや道徳とされなかったのは、多分にそうした言葉に付着した色々な日本的意味理解を超えて、アリストテレス的な[「科学者という集団の守る慣行や習慣的に共有、遵守されている意識」という意味合いを持ってのことだと想像されます。

最初に佐藤氏は、1.近代科学の離陸と題して、日本で科学が西洋から取り込まれた明治の事情とその経緯を分析、説明されています。この西洋との邂逅が日本の科学の道、モラルを決定づけたという意味で重要な視点です。以下、その要点をご紹介します。
初めは、明治に西洋文化、科学に接し、その教育、日本への移入を模索した福沢諭吉がいかにその科学としての「物理学」が彼にとって、重要なものと感じられたかが、「明治15年の慶応義塾での教育方針を示した『物理学の要用(演説)』」などを取り上げて、以下のように述べられています。この段階での物理は、福沢にとって、文化的世界とはまだ、切り離されてはいませんでした。以下、転載した内容をご覧ください。


<「序論」よりの転載部分>

結論の部分には
「わが慶應義塾において初学を導くにもっぱら物理学をもってして、あたかも諸課の予備となすも、けだしきれがためなり」とある。

そしてこれに続く別の文章「経世の学、また講究すべし」を見るとこれは現在でいえば「法経」の人材の養成について語っていることが分かる。

「理工」の人材のためとか、「理工」人材が重要であるという文脈ではない。

(中略)

福沢の物理に対する惚れ込みようは後年閉じを振り返って書いた次の文章に余すところなく吐露されている。すなわち洋楽のすばらしさを「およそ人に語るに物理の原則をもってして自ら悟らしむるより有力なるはなし。少年子弟または老成の輩にても、ひとたび物理書を読み、あるいはその説を聴聞して心の底おりこれを信ずるときは、全然西洋流の人となりて、漢学の旧に復帰したるの事例、ほとんど絶無なるが如し」。
彼が物理の学習に期待したのは「西洋の学」の方法、規範、精神といったものの体得であり、現象を説明する個別知識ではない。ただ、その講釈を抽象的にやられるよりは、身体的自然のからくりを目から鱗が落ちるように説明する物理を学ぶことでひとりでにそれが備わってくる、という意味である。

そして、この体得には、社会的な複雑さがなく直観的な自然現象の理論化である物理の学習が最適だと考えたのである。この想いは洋学ヘ彼自身の初体験の感動に基づくものであった。


<転載、以上>

そして、次に続く「科学の『文化的世界』からの離別」で佐藤氏は、
「現代科学は、果たして広範な人々の精神的態度に影響を与えるような文化的内容をどのように作り出し、どのように交流しているのであろうか?」
さらには、「福沢が接した時点から以後、欧米をとっても科学は技術をとおした社会との結びつきにおいて大きく進展し、これを背景に『科学のための科学』という制度が開栓し、飛躍的に拡大した。しかしこの社会的存在感の増大した科学は福沢が期待していたようなメッセージをより強力に発信するようになってきたであろうか?」


と疑問を呈し、
科学がこうした等身大の文化諸活動の一つという地位、「文化的世界」から、「専門の壁」に囲まれた、強大な存在感をもつ社会制度へと遊離、離陸していった過程
を以下のように説明されます。


<転載部分>

日本での(大学など高等教育制度整備が始まったことによる)科学制度構築の十九世紀後半という時代は、科学自体の発展においても特別の時期であった。電磁波の発見(1888)、無線電信の発明(1895)、X線の発見(1895)、放射線の発見(1896)、電子の確認(1897)、ラジウムの発見(1898)などの「思いがけない」理化学上の発見が相次いだ。

(中略)

昨年(1995年)は、X線発見百年の年であった。科学上の発見が新聞のトップ記事になったのはこれが最初であるといわれている。1896年の新年の紙面をかざったあの「生きている人間の手」の骨格が妖しく映し出された写真が持っていた社会的インパクトは絶大であった。

(中略)

こうした発見の駆動力は物理的な現象の研究に留まらず、分析法、測定機器、指示試料、情報機器、などの間接的なつながりも含めて、広範な科学と技術の分野に甚大な影響をもたらし、多くの学問を質的に転化させ、量的にも拡大させた。
また、これと連動して、古来、独立した価値観と伝統のもとにあった技術という営みが「科学」知識の応用であるというイメージに転化した。

この壮大な科学技術の時代謳歌の陰で科学の文化的世界からの「離陸」も進行した。
物理学を念頭にしていえば、先ず身体的自然を超えた現象への突入がある。電波、電子、放射線のように、それらの作用が、身体的に想像可能な現象を超えたものを科学は相手にするようになった。科学技術は自然哲学の知的領域のみならず、使用者にはブラック・ボックスの道具を生活の隅々にまで浸透させ、自然世界を瞬く間に人工物世界に改造した。

こうした中では身体に備わった危険回避行動や知恵や賢明さは方向感覚を見失うようになった。


<転載、以上>

そして、佐藤氏は、「さらに2制度としての離陸」という章で、制度科学の肥大という結果が生じたことを続けて語られます。まず、「科学社会学」という項目で、アメリカの社会学者ロバート・マートンの説を述べられます。さらにマートンが本論の題目である「科学のエートス」を「理念としての科学」として、提示したことをその次の項目「理念としての科学」で説明されています。以下にその重要と思われる部分を転載して、説明します。

<転載部分>

マートンは二つの原理を見出した。
一つは、科学上の発見は原理的には多くの競争者が同じ頃に類似の結論を得るという意味で多重的であること、
もうひとつは
科学の報奨システムは基本的には同僚研究者の自分の発見への認知に基礎を置いているということである。
そして、この二つの原理が招来する結果は、
先取権をめぐる騒々しい競争となり、多くのエネルギーがそのことに費やされる。

(中略)

理念としての科学

はたから見れば奇妙とも見える研究競争社会でのこうした生態を異常と見ずにむしろ推奨する論理は、もちろん他に求めなければならない。これがマートン科学社会学のもう一つの柱である「科学者のエートス」を述べた「理念としての科学」である。(中略)
エートスとはエトス(習慣)の繰り返しでかちとられる持続的な習性や風習を指し、よいエトスに染まればよいエートス、倫理を形成する。マートンが科学に認めたよきエートスは、

公有性(communality)
普遍主義(universality)
私的利益からの解放(disinterestedness)
系統的懐疑主義(well-organaized skepticism)


からなる道徳的規範である(マートン1961年、クロザーズ1993年、村上1994年)。
そして、科学知識の成長は、こうした規範に対する、科学者によるコミットメントの結果とみなされる。


<転載、以上>

<この項 作成中>
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