倫理と道徳について、2000年に既に語られていた課題を知る

この文化論は、1997年(二十世紀末)に刊行されています。その意味で、2020年現在、学校教育で導入が進む道徳などの授業からは、20年以上昔に提示された「倫理・道徳」への課題です。

この項は、こうした課題がどこまで今の教育に反映されているのかをこの文化論をと一緒に考えていくことをこの章の目的としてみました。

そのために、その1で先ず、全体の編集に携わった河合・鶴見両氏の話を概観することにしました。
以下、最初にあとがきともいえる河合隼雄氏の「アニミズムと倫理」、その次に鶴見俊輔氏の「倫理への道」をご紹介し、その課題と現状の教育課題の「道徳」を俯瞰してみたいと思います。この項は、河合隼雄氏の「アニミズムと倫理」を解題していきます。


先ず、河合先生は、はじめに、「一般的な社会的倫理・道徳を語ること」ことの難しさを述べられ、この中では、「個人的な選択としての善悪の基準とは」を考えることにしてみると語られ、その内容に入られています。このお話からも1990年代当時も「倫理・道徳」が世間一般で取り上げられ、オウム真理教事件などの後でもあり、各所で問題になっていたことが感じられます。
最初の項、「日本人の倫理ギャップ」という項では、日本と世界の倫理感を偉い人(特に政治家など)と一般人の倫理観を比較し、その独自性についてのお話をされます。
20年後の今にも通じる話であり、今も全く変わっていないのだと感じるお話です。


<転載、部分>

最近の新聞を見ると、倫理の問題を問われているのは、政治家だけでないことがよくわかる。とすると、巷でときどきいわれるように、「偉いさんたちは悪いことをしている」という考えはどうであろう。「我々庶民は堂々とまじめに働いているのに、偉いさんは悪ことばかりしている」という考えである。
ここで不思議なのは、そう言っている人たちが、抗議のために何かするか、といえば何もしない。それどころか、「悪い偉いさん」を選挙によって、もう一度選んだりする。これらのことを考えると、どうも、他国の外交官の指摘した、日本人の間の「倫理観のギャップ」は、やはり「日本の問題」として、取り上げて考えるべきだと思われる。


<転載、以上>

全く、同感という人が多いのではないでしょうか?
でも待ってください。だとして、20年前にこう語られいるのに、この「倫理観のギャップ」については、現在、道徳の授業などで語られているのでしょうか?道徳の教科書を是非、観てもらいたいものです。それはそれとして、この講座では、その「日本人の倫理観のギャップ」とはをもう少しこの文化論から、紐解いた上で、道徳の授業を見ることにしています。
次に河合先生は、倫理ギャップを感じる事件として、オウム真理教事件やその他のエイズ薬害事件などを取り上げた上で以下のように語られます。


<転載部分>

ところで、収賄などの悪をはたらいた政治家や官僚も、道に落ちている財布を拾ってもあんがい警察に届けるのではなかろうか。そして自分の担当してる職務としての個々の仕事については、前述した(オウム真理教事件)地下鉄職員に似たような熱心さと誇りをもって、「お国のために」働いているのではなかろうか。

たとえが、エイズ薬害薬害事件で逮捕えた医者が、自分は患者のために頑張ってきたようなことを言うのを聞くと、強引にごまかしているのかもしれぬが、本人も実はそのとおりに信じており、ただ、自分の犯した悪については、上手に無意識のままでいるのではないかと思ったりする。
つまり、同じ日本国民のなかで、倫理性の高い庶民と倫理性の低い高位高官が無関係に並存しているのと同様のパターンが個人の心のなかに生じているのではないか、と思われる。
要するに、悪に対する自覚、意識化が弱すぎるのである。


<転載、以上>

次の項「倫理と宗教」では、宗教に着目して、西洋などの一神教と日本人の宗教観から、以下のように世界に対して、日本の「道徳と倫理」とはという問題に迫ります。

<転載部分>

ともかく同じ神をいただき、その神による道徳律が共通にあると信じる限り、そのような人たちは互いに暗黙の信頼感をもつだろう。欧米人が日本人に対して、何となく信用できないような感じをもったり、外交や貿易において不必要な摩擦が生じたりするのも、底流には宗教の問題があると思われる。
このことを日本人はよく認識しておくべきである。だから互いに信頼できないというのではなく、信頼関係を築くためには、相当な努力が要ること覚悟していなくてはならない。

かつて、湾岸戦争があったとき、アメリカの大統領とイランの大統領が互いに相手を悪魔と呼び、自分たちに神の加護があると述べているのを知って、これだから一神教は問題だ、どうしても戦争を起こしてしまう、という日本人があった。そして、日本人は多神教だから、単純に相手を唯一の神の敵としてしまわずに、神々の共存を考える。だから、日本の方がよいとさえ主張する人もあった。確かに、一神教と多神教とではそのような相異があるといえるかもしれない。しかし、だからといって多神教の方がよいとどうして結論づけられるのか。
まず、第一に、多神教の国の日本は、かつて世界のなかの好戦国のように思われたときがあった。当時の日本人は、自分の国の軍隊を「皇軍」などと呼んでいた。この事実をどう考えるか。
次に多神教で、それぞれの神がばらばらに善悪の基準を設定し、人々が自分の好きな神の言う事のみに従ったら、大混乱に陥ってしまうのではないか。このような問いに対して、日本の優位を主張した人はどうこたえるのだろ。

まず、最初の問題から、日本の宗教を多神教と考えるか、アニミズムと考えるか、その点は後に論じるとして、ともかく大半の人は一神教信者ではない。にもかかわらず、敗戦までは、天皇一人をアラヒトガミとして、その命ずるままに動くことをもって、日本人の道徳としていた。これは極めて一神教的である。それはどうしてだろう。
人間は弱いものだから、何か絶対的なものに依存したがる。そこにつけこんで、何か絶対的な超越性を体現すると思われるものを中心にもってくると、どうしてもそれに頼りたくなる。しかも、それが全体的な傾向だとすると、それに対抗するのは難しい。


<転載、以上>

そして、河合氏は、戦時中の自分の経験から、「自分なりに当時の日本のスタンダードの考え方が何かおかしいと感じて、心の中が分裂してた。そして、中学生のとき陸軍士官学校への推薦入学を断ってしまった。ともかく、自分の内面の声に従ったのだ。」と語られ、そうした「複数のアイデンティティー」というものの存在を指摘されます。その上で、「内面の声はいつも正しいのか、内面の声が複数のばあいはどうするのか。」と続けます。

この次の項「美意識」では、
こうした倫理的決定への基準を考える上で、一見、全体的な秩序を保っているとみえる日本をどうみるかという点で、「日本人の倫理観は低く、その行動は、<社会的な(世間的な)コンセンサス>に従っているだけで、<赤信号、皆で渡れば怖くない>式の倫理観になっている」と指摘されます。
その上で「美意識」という表現に以下のように着目されます。


<転載部分>

ものごとの全体的な収まり具合を判断するのは、美意識ではないだろうか。全体的な「姿」が問題なのである。それは「悪」だなどというのではなく、「みっともない」と感じる。個々の行為に善悪の判断基準を適用していくのではなく、それらのいろいろな関係がいかにバランスよく収まっているかを問題にする。それが結果的に倫理的な判断につながっていく、これが日本の方法なのである。

友人でユング派の分析家であるジェームズ・ヒルマンが私に「日本人は葛藤の美的解決法を知っている」と言ったことがある。対立が生じたときに、どちらが正しいのかを判断するために論議をしたり、争ったりせずに、「バランス感覚」で答えを見出すことを指して、彼はこのように言ったのである。なるほどよく観察しているなと感じた。
善悪の判断の争いとなると、時にはそれは徹底的なものになり、血を見ないと終わらないことにもなる。その点、日本人は「美的解決法」を知っているので、流血を避けることができる。倫理的決定の際にバランス感覚がはたらいている。それを「美的」と表現したのである。


<転載、以上>

そして、その上でこの日本人の好きな「なあなあ式の解決」がいかに欠点が多いかを日本人も知っているとして、次の「たましいと倫理」という項目へ話を以下のように続けられます。宗教としての日本での仏教と西洋キリストを再度比較してみた上で、日本人が風土基礎的にもつ、アニミズムやたましいというものに着目して、なんだかの「縛り」の重要性という面を指摘されます。

<転載部分>

西洋の場合は既に述べたように、個人主義を裏打ちするものとしてのキリスト教があった。現代は、そのような神を信じることなく個人主義を生きようとして、いわゆるミーイズムになる問題が欧米では生じてきている。
これに対して、日本のアニミズム、あるいはそれと関連する仏教は、倫理という場合に非常に弱くなる。大体のところうまくいっているのだから、という捉え方をする。宇宙全体の運行はそれ自身でうまくいっているのだから、そこにおいて人間は別に何をするべきか、すべからずということはないと考える。

これは、たましいという表現を用いても同様ではないだろうか。たましいのはたらきそのものには、善悪も何もない。それを各人がいかに生きるか、という点で倫理の問題が生じてくる。たましにの実現傾向は、一般道徳と対立することがある。そのときに、ある個人がいかに生きるか、という倫理的決定が必要になる。

人間が倫理的に生きるとは、自分のたましいに対して、あるいは宇宙に対して、何らかの「縛り」をいれることではないかと思う。


<転載、以上>

とした上で、さらにこの「縛り」が仏教では「戒」であったと説明し、では、アニミズムのときは、それぞれの世界が「タブー」をもっている。とその以前から存在した「縛り」の役目を担ったものを呈した上で、近代合理主義によって、日本人がそのような縛りを失い、宗教の自覚もなくなっていくと、論理的なアナーキーになるのではと問いかけます。その上で以下のように「自らに対して縛ると決意することの重要性を主張されます。

<転載部分>

(前略)
庶民は何のかのと言いながら、昔からの伝統に生きている。しかし、高位高官になるというのは、そのような伝統から切り離れやすい。そうなると倫理的堕落が生じることになる。
本巻の鶴見俊輔「倫理への道」によると、
「富士正晴は老兵として招集されたとき、生きのこること、戦時強姦をしないことという二つの原則を立てた」という。この原則が筆者の言いたい「縛り」である。そのような縛りをしてこそ、たましいの働きがよくわかるのだ。
このような縛りは、極めて個人的である。言えというなら、ある程度はそれがなぜ正しいかいえるだろう。しかし、誰にとってもの正しいからしているのではなく、根本的には自らが自らに対して縛ると決意することが大切である。

誰もが「なあなあ」と同じ方向に進もうとするとき、それと異なる道を行くには、自分が自分に貸した堅い縛りが必要である。もちろんその縛りが一般的傾向と合致したり、あるいは葛藤を生じないときもある。その時は別に問題はないが、それが対立するときには「なあなあ」の傾向と戦う必要がある。相手は弱そう見えて実に強い。そこでどのように争い、それを収めるか、ここでも美意識が関連してくるだろう。
このようにしてこそ、ある個人が生きたと言える。しかし、ここにいう個人は、個人主義の個人とは異なる。後者の場合は、もっと近代自我を中心に考えている。


<転載、以上>

そして、この個人的な縛りは、近代化によって不合理として捨てられた「意地」「男が立たぬ」=「心意気」のようなもので、善悪の判断とか論理とかの関連が薄かったが、地方では、日本的な「なあなあ」主義は生き続け、ある程度近代化された人(出世するような人)は、そうした倫理の谷間に落ち込んで、庶民感覚では考えられないような悪を行なうようになってしまうのではないだろうかと説明されます。
その上で、次の項目「現代日本人の倫理」という項目でこれからの日本人の倫理とはどうなるのかをいうテーマに到達していきます。ここからは、後編へと続きます。


<この項、了>
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