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個人と公を媒介・連携し個人にとって安心を実現する

第四回会合は、中村桂子、小島明、仙頭直美、星野昌子、南裕子、河合隼雄、山本正 計7名の委員参加で、個人と公を媒介・連携し個人にとって安心を実現する要件について、まず、南氏から看護・福祉の専門家の視点を、また仙頭氏から若い世代の視点を踏まえた具体的な問題提起が行われ、それを受けて議論が行われました。

1)南裕子氏による冒頭提起から

<南裕子氏の略歴>


<転載部分>

南裕子(みなみ・ひろこ)

兵庫県立看護大学長・研究科長・教授。専門は精神看護学、理論看護学。

1942年生まれ。65年高知女子大学家政学部衛生看護学科卒業。横浜市民病院看護婦、高知女子大学助手などを経て、72年イスラエル国ヘブライ大学医学部公衆衛生学修士課程修了(公衆衛生学修士号)。73年高知女子大学講師、同助教授を経て、82年カリフォルニア大学サンフランシスコ看護学部博士課程修了(看護学博士号)。82〜92年聖路加看護大学教授。92年兵庫県保健環境部参事として県立看護大学の開設準備を担当し、93年より現職。現在、日本看護学教育学会理事長、日本災害看護学会理事長、日本看護科学学会評議員、日本生命倫理学会評議員、日本看護協会会長、厚生省医療保険福祉審議会委員ほか役職多数。

主著に、『セルフケア概念と看護実践』(へるす出版、1987年)、『阪神淡路大震災―そのとき看護は』(日本看護協会出版会、1995年)、『心を癒す』(講談社、1996年)、『看護における研究』(日本看護協会出版会、1999年改訂)など。また、訳書に、A.Strauss他著『慢性疾患を生きる』(医学書院、1987年)、G.B.George編『看護理論集』(日本看護協会出版会、1998年)など。

<冒頭提起>

〇看護の現場のおいても、患者に不安の自覚がない場合の方が危険度が高いという傾向がある。適度な不安は必要であり、本分科会が取っている「すべての不安の除去を目指すのではなく、解消すべき不安と受容すべき不安を選別する」というアプローチは重要。

〇いわゆる弱者(子供、病人、怪我人、被災者、高齢者等)は、従来、保護という名目で社会から隔離されてきた。どのような状態の人にも尊重すべき自律性があるということは、極めて重要な視点である。
人は皆、状況次第で弱者となり得る(ライフステージの変化)のであり、こうした弱者を当たり前の存在として社会内部に含み、各人がその人らしく生きていくことのできる社会としていく必要がある。

〇「共生」という考え方は、お互いに生かしあって生きることであり、それは独力ではできないことがあることを認容して、それを分かち合い支えあいながら生きていくことである。自律性を持ちながら、しかし、他者からの助けは必要であり、それが人間として当たり前であるという文化を育てる必要がある。

そのための取り組みとして、

^緡鼎諒野においてインフォームド・コンセントが言われるが、単に情報を提供するだけでは、どうして良いかわからないという不安を煽る面もあり、不十分である。情報に加え、相談機能が重要であり、具体的・専門的な助けを提供できる「町の保健室」を提案している。

「人が人を世話すること」に社会的価値が置かれるべきであり、ケアをする者の社会的地位の向上を目指し、専門職として分野を確立し、人材を育てる必要がある。

〇信頼こそが安心できる社会の基本である。これまでは、「公」が制度を準備することにより信頼を提供してきた。今後は、各個人が自ら選択したコミュニティが、個人の帰属する集団として信頼の基礎を提供するという方向へ向かうべきである。
「自ら信頼できるコミュニティを自ら選択できる」という点がこれから最も重要である。


<転載、以上>

これに続いて、映画監督の仙頭真美氏から、若い世代の視点を踏まえた冒頭提起が以下のように続けられました。

<仙頭真美氏の略歴>


<転載、部分>

仙頭直美(せんとう・なおみ)

映画監督。有限会社「遷都」代表取締役社長。

1969年生まれ。89年大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校大阪)映画科卒業。92年、幼い頃に生き別れた父親を探す旅を描いた「につつまれて」を発表。94年、育ての親である‘おばあちゃん’との日常を紡いだ「かたつもり」を発表。95年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で、「につつまれて」が国際映画批評家連盟賞を、「かたつもり」が奨励賞を受賞。96年、「陽は傾ぶき」、「萌の朱雀」完成。97年、「萌の朱雀」がロッテルダム国際映画祭国際映画批評家連盟賞を、また、第50回カンヌ国際映画祭にて史上最年少・日本映画としては初のカメラドール(新人監督賞)を受賞。同年、同作品の舞台となった西吉野村に暮らす6家族をドキュメントした「杣人物語(そまうどものがたり)」完成。98年芸術選奨文部大臣新人賞受賞。99年「万華鏡」完成。同年、新作「ほたる」にクランクインする。

主著に『萌の朱雀』(幻冬舎、1997年)。

〇映画の現場等の10〜20代の若い世代に「何が不安か」についてたずねて得られた回答で最も印象に残ったものに、次の二つがある。

「小さくて古くて奥深いものが壊れていくこと」が不安である。これを、生活に即してより具体的イメージで言うと「おばあちゃんのやっているおいしいお惣菜屋さんがつぶれていく」ような状況が不安であるということである。

回りに人はたくさんいるのに「気をつけないとすぐに独りになってしまう状況が蔓延していること」が不安である。

〇△療世砲弔い胴垢帽佑┐襪函上の世代は、集団に個人が飲み込まれる体験をし、それを踏まえて個人の私的なものが確立し得るように努力してくれたのだろうが、いまやそのことが孤立を生み不安となっている。
若い世代は人の温かさを欲し、現在の孤立から集団へどう帰っていくかがポイントではないか。

肌のふれあいやぬくもりが安心感の基礎を与えるものと考えている。今後、機会を捉えて、子供や若者に、「両親の体に触れたことがあるか、あるとしてそれはいつか、今触れたいと思うか、思わないならそれはなぜか」というような質問をして、また報告したい。

〇独りであることに価値が置かれたことから、子供は、まず親と関係を結ぶことを避け、更に他人と関係することを避け、人を信じられなくなり、人間としての温かみやぬくもりがわからず孤立していくという状況ではないか。従って、同世代の友人関係でも、自分達とは直接関わりのないものを話題とし、遊び道具はたくさんあり表面的な関係は賑やかであるが、自分達の直面する問題について人間同士として通じ合うことはないという状況になっている。


<転載、以上>

そして、これらの問題提起についての意見交換は、以下のように展開されました。

<転載部分>

【個人の信頼の基礎を提供する仕組み、集団と個人の関係について】

〇信頼が基本である。その信頼の基礎は、これまでは、公が仕組みを作り提供していたし、また一方には伝統・文化・習慣がありこれも信頼の基礎となっていた。今後、個を中心に考えていくに当たり、集団に埋没しないことが一方では孤立を生むという問題があり、また、個を前面に出すと伝統的日本文化も崩れてしまうという問題がある。個人の信頼の基礎を確保するために、どういう仕組みをつくるかが問題である。そうした見地から、「町の保健室」、「ケアの専門職」、「学生インターン制度や子供による職場訪問」などは傾聴すべき提案である。

〇公に代わリ、個人の信頼の基礎を提供する集団の作りやすさについて、例えば集団療法を例として日米の比較をすると、アメリカでは個と個のぶつかり合いがグループを壊していくことが多いのに対し、日本ではグループをサポートする仕組みが出てくるという傾向がある。日本人は集団を大切にするという性質があり、自ら選択した場合、集団と個人との間の取り方はアメリカ人よりも上手なのではないか。

〇うまくいけば日本人はバランスが良いというのはそのとおりだが、集団が優位になり個が殺されてしまうというリスクも相当高いと考えられる。特に日本的な「仕切り屋」が出てくると個は殺されがちである。いずれにせよ「自分で選んだコミュニティ」という点が極めて大事である。

〇かつては強制的に集団に帰属・埋没させられたが、その後距離を置くことを覚えた。そして今度はそれが行き過ぎて、煩わしいことは避けて通るようになったのが現状である。自らの意志による再コミットメントへと進まなければならない。

〇その一方で、例えば地域社会の桎梏のように、煩わしさは今なお残存しており、個人が煩わしさから全く開放されたというわけではない。従って、例えば地域が重要だといっても、昔のままの地域に帰るということでは問題の解決にならない。

〇近代化を受け容れつつ伝統文化の良い面を守っていくという場合、これがナショナリズムと区別される日本人としてのアイデンティティの問題であることをはっきり認識しておかないと、偏狭になる恐れがある。その意味で「開かれたアイデンティティ」という視点が重要である。

【個と孤立、身体接触について】

〇現在、大学ではクラブがほぼ全滅している。その理由をみていくと、クラブの中で自分が孤立してしまう恐れがあるので、関係性ができる前に引いてしまうというように、学生達には、寄り合い葛藤することを避けるという傾向がある。そこでは、距離を保って相手に触れないことがやさしさとされている。

〇かつて集団に強制的に埋没させられたことの反動で、急いで自立ということを言い過ぎた結果、孤立が生じている。自立と依存は反対概念ではなく、相互に依存しているから自立しているのだが、その点の理解が不十分で、依存をなくそうと努めた結果、孤立へ行ってしまったという状況にある。

〇身体性(ボディ)の喪失については、身体接触には肉親とのものと異性とのものがあるが、現在の状況としては、肉親との身体接触を欲しつつそれが得られないままに、それ抜きに異性との身体接触に行ってしまうということがある。

〇挨拶等の際の身体接触についての欧米との比較では、欧米人は元来個々人の気持ちが離れているために身体接触によらないと親愛の情が伝わらないのに対して、日本人はもともとは身体接触をしなくても気持ちが密着しているという文化的な違いがある。
現在は、日本人の気持ちの密着という点に揺らぎがあり、あえて行う身体接触が有効な場合もある。また、身体接触も習慣となり形式化すると意味が失われるという面もあり、バランスの難しい問題である。

【共生の文化について】

「内に秘めているもの」に関心があるということが一般化すれば、世の中が変わる。
高齢者は医者の世話になることは受容しているが、福祉施設の人に世話されることには抵抗を感じる傾向がある。看護婦の行うことについても、医療補助者としての仕事は当然のこととして受容するが、ケア(介護)については当然という意識はない。介護サービスについては、お金を払って世話をしてもらうことにはあまり抵抗はないようであり、善意のボランティアに自分のことを委ねるのには苦手意識がある。こうした意識も、文化が育ってくれば、例えば男性美容師が今や当たり前のものとみなされているように、変わってくると考えられる。

〇ケアと治療は異なる。医療は治療中心で発達してきており、ケアを医療の中に入れると混乱が生じる。ケアは、治療とは独立した重要な分野との認識が必要である。


<転載、以上>

<この項 作成中>
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