「安心な生活への問題提起と総括的な議論へ」

今回会合においては、猪木氏からは、安心の生活についての問題提起がなされ、小島氏からは、これまでの議論を踏まえて、論点の整理と今後の方向性について総括的な発言がありました。
それらを受けて自由な意見交換が行われます。


以下に猪木氏の安心の生活についての問題的と小島氏の総括を両氏の略歴とともに転載しますので、ご覧ください。


<転載部分>

<猪木氏の略歴>

猪木武徳(いのき・たけのり)

大阪大学経済学部教授。専門は労働経済、経済思想、経済政策。

1945年生まれ。京都大学経済学部卒。米国のマサチューセッツ工科大学で博士号取得。大阪大学助教授を経て、現職。この間、フランス国立科学研究所、オーストラリア国立大学、米国ハーバード大学で客員研究員、ドイツのマールブルク大学客員教授、理論計量経済学会常任理事などを歴任。

主著に、AspectsofGermanPeasantEmigrationtotheU.S.A.,ArnoPress、『経済思想』(サントリー学芸賞受賞、岩波書店、1987年)、SkillFormationinJapanandSoutheastAsia,UniversityofTokyoPress、『人材形成の国際比較』(大平正芳記念賞受賞、東洋経済新報社、1987年)、『高度成長』(岩波書店、1989年)、『新しい産業社会の条件』(岩波書店、1993年)、『日本の雇用システムと労働市場』(日本経済新聞社、1995年)、『学校と工場:日本の人的資源』(読売新聞社、1996年)、『デモクラシーと市場の論理』(東洋経済新報社、1997年)など。

<猪木氏の問題提起>

安心の要件を考える場合、その反対概念である不安について、直ちにその除去を目指すのではなく、不安の内容・性質を理解するように努め消化していくという営為が重要である。これにより、未来への指針を得ることも可能であるし、また、消化したものをわかりやすい形で次世代に伝えていくという意味で教育の問題とのつながりも得られる。

〇自分は大学で若い世代に接しているが、むしろしっかりした人が昔より多いように思う。また、自分の属する世代グループを前提に考えれば、高齢化に関する不安が関心の中心と考えられる。
主体・状況等その視点により、不安は大いに性質が異なる。総花的に問題を取り扱うのではなく、切り口を明確にして、思い切った軽重をつけた方が良いのではないか。

日本社会のシステム上の問題点として、チャンスが1回限りでやり直しができないという点がある。
この点は、再教育制度の問題でもあり、多様性という当分科会のテーマの一つに即して言えば、
再び戻れるという時間的な意味での多様性とも言える。
例えば、大学は社会人にも門戸を開放しているが、企業人がこれまでの実践的な経験に基づく知識を学問的作法に則り論文として発表するというケースがあり、他の若い学生への強い刺激となっており、ライフステージ間でのコミュニケーションとしても、知のレベルの面でも、極めて意義深いものとなっている。

この「やり直し」ということは、例えば既に相当高齢な者を医師として養成する場合、高額の養成コストに見合う期間医師として勤務することは不可能である、というように社会的なコスト負担を要求するものであり、また、やり直しの現実の発動には個人の側にも相当な覚悟と諸要件を必要とするので、原則的なケースとなるべきものではないと考えている。しかしながら、例外的としても、各人にその可能性が開かれているということは大きな意義を持ち、そのためのある程度の社会的コストは必要なものとして受容すべきであると考える。

同じ問題を抱える者同士のグループ形成やコミュニケーションは、自分以外にも同じ不安を持つ者が存在するという意識を通じ、安心に大いに寄与する。
民主主義は国家の前に個人をバラバラにしたが、その個人を自主的な選好に基づいて再結合することが重要であり、中間組織の育成の条件整備を進める必要がある。



<小島氏の略歴>

小島明(こじま・あきら)

日本経済新聞社論説主幹。
1942年生まれ。1965年早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社に入社し、69-70年ブリティッシュ・カウンシル招請により、マンチェスター大学大学院経済修士課程留学、78-82年ニューヨーク特派員、編集委員兼論説委員、編集局次長、国際第一部長、論説副主幹を経て、97年3月より論説主幹。
東京工業大学非常勤講師。総合研究開発機構(NIRA)理事。

主著に、『昭和の歩み・日本の経済』(日本経済新聞社、1988年)、『調整の時代』(集英社、1989年)、『グローバリゼーション』(中央公論社、1991年)、『21世紀の日米関係』(日本経済新聞社、1998年)など。


<小島氏の論点の整理と総括>


議論の視点:

〇現在の不安は、かつての生存そのものの不安とは質的に異なる「恵まれた不安」であり、多分に個人の主観的要素が含まれている。
政府が一律的政策で不安をすべて解消しようとすることは不可能であり、幸福を保証するものでもない。

〇不安の性格の変化とその歴史的な環境変化:
戦前から1970年代末頃まではキャッチアップ過程パート1であり、貧困・貧乏の克服過程であった。
その後1980年代央頃までが同パート2でありこの頃までに所得面のキャッチアップも完了する。
続く90年代の特徴は不況下の過渡期であり、21世紀には、キャッチアップのパート3として、質が求められ、真の成熟化が要求されることとなろう。

キャッチアップの過程では、その手段として、集権・集団・画一主義、会社主義が採られ、その結果として高成長がもたらされ、それが終身雇用・年功序列の結果平等社会(単属システム)を可能にした。
これに対し、21世紀には複属社会システムが求められている。

規格大量生産・大量消費が環境問題を起こし、差別化・個性化・独創性を重視した知識集約型産業への技術パラダイムの変革が求められている。
人口動態の激変(少子・高齢化)が起こり、「人生50年」から「人生80年」へと変化している。更に、グローバリゼーションの進展という新たな要因も生じている。こうした変化を背景として変化自体のスピードが加速しているという状況にある。
また、企業・組織の寿命より人の寿命が長くなり、単属は不可能で第二・第三の人生を考える必要が生じており、この面でもライフステージの視点が重要となっている。。

〇上記の変化を個人の視点で見ると:旧来のシステム・価値観が維持不能で変化を迫られていることを理解しながらも変化したくないという心理が強くその葛藤から不安感を高めている。
高齢化時代は、個人の視点から見ると長寿の時代であり、健康寿命の長期化、そのためには勤労寿命の長期化が重要である。これを可能にするためのシステム・条件整備として年齢のみによる強制定年制の修正、予防医療の充実、生涯学習のためのシステム、職業訓練システムの充実等がポイント。

ライフステージに沿った生活・職場の多様な選択のため、勤労寿命内の人に様々な選択を可能にするような職場あるいはコミュニティを含めた場・舞台を用意することが肝要。

個人の多様なニーズに対応するため、政府の集権的な政策システムを分権化し、規制を撤廃し、民間セクターの柔軟な対応力により多くを委ねる必要がある。
これに関連して、
NPOのあり方を社会的にしっかり位置づけて、NPOと行政の関係もタテ形から水平のパートナーシップヘと変えていく必要がある。

技術パラダイムの変革に関連した不安は、新しいパラダイムに心理的抵抗感のある中高年で特に深刻。ここには、機械の取扱いという物理的な問題のみならず、情報に対して日本人が消極的であるという問題もある。情報化時代への不安は世代を超えた社会全体のものとすれば、初等教育の段階からの組織的対応も重要ではないか。

教育は、依然キャッチアップ時代向きの画一主義でありながら、集団・組織の中における規律を教えることができず、家庭・家族の教育機能喪失(放任・野放し)がこれに拍車をかけ、若者は個人ならぬ孤人となっている。少子化で友達が少なく、仲間・組織とのつきあい・人との接点に不安がある、孤立した孤人の若者は、組織に飲み込まれてきた中高年世代とは異なり、むしろ帰属先を求めているのではないか。これに関連して、家庭と家族のあり方をどう考えるか。

〇「うるおい」は、価値観の多様化、自主性、豊かな自然、ネットワーク化等新たな技術パラダイムがもたらす積極的な側面、といったものによって支えられる。他文化への理解も肝要であり、外国人労働者等他文化との接触への不安をいかに管理するかという問題も重要である。環境問題も含め、個人のレベルでの対応策としては、教育の問題となる。

弱者の考え方については、「誰もが、長いライフステージにおいて弱者、マイノリティになり得る」という捉え方で、ふところの深い社会をつくることを目指すべきである。

いわゆる自己責任とそのあり方について、強い個人を実現する条件としては、自覚プラス社会的な条件としての複属可能性、必要で十分な情報提供(開示)システム、再挑戦・再教育システムが重要。

営利セクターがしっかりしていないと非営利セクターも機能を発揮しない。ただ、公共的な活動についての意識としては、98年の調査で「他人や世の中の役に立つことが大きな喜びである」との回答が6割に上っており(95年の4割から増加)、一つの可能性を示すものと考えられる。
少子化を個人の視点から捉えると、子供は2人以上欲しいが現実問題を考えるとそうもいかないとの回答が多い。この状況をどのように変えるかが重要であり、助成などカネの問題というより、例えば職場の近隣に良い保育所があれば高額でも利用する女性は多いだろうというように、社会システムの問題として対応策を考える必要がある。


<転載部分>

【現代における危険の軽減】

不安の除去だけを目指すべきではないこと、平和と成長が続いた結果、かつてのような生存の危険がなくなったということは、そのとおりである。しかしながら、我々の生きる現代社会の中で危険はなお多く存在している。例えば、交通事故による死者の数は年間1万人を下らないままに推移しているし、また医療事故も後を絶たない。
 このような危険に対して、生活の安全のために改善を要する点についての提言の余地は数多いものと考えられる。例えば、交通事故については、ガードレールや電柱の素材・構造の変更というような社会インフラ面での対応、また、医療については、産業レベルでの安全工学的な視点からの事故対策が挙げられる。誤りの危険性を減じるような手法は何でも積極的に取り入れるべきである。
医師をのせたドクター・ヘリコプターは、ドイツ等でも交通事故死者の減少に大きな効果があり、近時、日本でも導入に向けた動きがあることは望ましいものと考えている。
我が国の危機管理体制については、阪神大震災やオウム事件において、行政はほとんど有効な対応ができなかったことに留意する必要があり、奇襲攻撃に対する専門家集団がないという点が問題である。

【宗教】

宗教の問題は、特に安心の生活にとって、極めて重要な問題。しかしながら、その取り上げ方は極めて難しい。
宗教ゆえに不安が生じるという面もあり、より一般的に、良く生きるためには信念を持つことが大切であるというようなアプローチも可能ではないか。
安心の提供を前提に、宗教法人は税の優遇を受けている。しかしながら、現実には、宗教法人の名跡を金で売買するようなことが起こっている。政治の根幹である税制の面で、このような不平等・不公正を21世紀も続けて良いのであろうか。
生まれてから一度も宗教について考える機会も必要もないというのが、宗教についての日本社会の現状であり、これは危険なことと考える。公教育においては宗教教育に拒否反応があるが、特定宗派に関する教育は駄目としても、宗教とは人間にとって何であるか、他国では宗教はこんな社会的役割を果たしている、という意味での宗教教育は、公教育においてむしろ積極的に行うべきであると考える。

【やり直しが可能な社会システム】

最近文部省が大学院の受験について学歴を問わないこととしたことを高く評価したい。
現状では政治家になるというのも、後戻りのできない一種の職業選択である。政治には全く期待できないというニヒリズムが無党派層の増大という形で現れているのであり、選挙権や被選挙権のあり方を根本的に考え直すことがあっても良いのではないか。選挙で当選しても落選しても元の職に戻れることを保証する、選挙権を納税義務と組み合わせる、などの方法も考えられる。
やり直しといっても、若い世代の実感としては、選択肢が数多く与えられているからこそ不安であって、他律的に決められている方がむしろ楽である、という意識の方が強い。逆に、人生は一回限りであり「勝負どころ」というような意識の方が求められているのではないか。

【情報提供(開示)・広義の教育】

多様性を認める社会といっても、それにふさわしい教育をしてきていない。例えば、行政がサービスとしていろいろな制度を用意しているとしても、誰も読んでいない官報が公告の手段とされていることなどの結果として、一般の人にはわからないというのが現実である。広義の教育の問題として、例えば、失業したらどうすれば良いか、株式の売買は具体的にどうするのか、社会政策的な行政サービスにどのようなものがありどうしたら享受できるのか、などというような社会に出てから役に立つ実践的な知識を義務教育で教えるべきである。
 現在はアカウンタビリティーが著しく欠けた状況にある。悪いことも含めてわかりやすく説明してもらわないと分からない。政治に興味が持てない理由も、結局のところ分からないからである。国が、その責務として、有用な情報をわかりやすく提供するべきである。
生の情報はわかりにくいので、わかりやすい形で開示する必要があるというのは、情報の二次加工の問題。これは、公と私の中間のどこかのレベルで行うべきものである。また、医療においては広告が規制されているが、第三者機関が情報を集めてわかりやすい形で公表するという方法がありうる。
二次加工の問題というよりは、広義の教育の問題ではないか。
陪審やマンション管理組合の運営など、単に他者の行為を批判するだけでなく、自ら実行することを経験して始めてその難しさが分かるものである。公的な利益のために奉仕するメカニズムを導入して、市民が実践の中でその困難性を理解することは、非常に建設的な意味を持つ。
政府や企業による情報公開というのは、肝心な部分はなお隠しているのではないかとの疑念が常に付きまとうが、インターネットを用いた匿名による内部告発のように、ゲリラ的な情報公開は人々の関心を引き、大きな効果を有する。
アメリカでは、PE(professionalengineer)の基礎的資格要件として、内部告発のできる人間でなければならない、というのがある。不正に対しては、一部利益ではなく人類全体に属する者という立場から、信念に基づく行動をすべきであり、社会はこうした誠実な告発者をサポートするようなシステムを作らなけばならない、と考えられている。日本においてここまでの社会的合意ができるかどうかは不明だが、少なくともそちらの方向へ向かって進むべきものと考えている。
マスコミも信頼できない。マスコミは書いたものを売らなければならず、端的に言って、不安は売れるが安心は売れない、という問題がある。市民の情報源としてその判断を左右するものとして、マスコミのモラルの問題が極めて重要である。

【「弱者」の考え方】

いわゆる弱者を「保護」するという視点からの脱却が必要である。現在、例えば女性など、これまで弱者という立場・殻に押し込められていた人達の「反逆」が起こっている。いかなる状況に置かれた者であっても人間として同等の重みがあるという理解が普遍的なものとなる、という意味でのふところの深い社会を実現すべきである。
世代によっては「人様のお世話になるような恥ずかしい生き方はしたくない」という意識が根強く、サービスを受ける側のネックにもなっている。

【21世紀を担う世代の意識】

当分科会での議論を、若い世代にどのように伝えるのか、果たして伝えられるのか、という問題がある。文章という手段では、うまく伝えられないのではないか。若者の一般的な意識は、言いたいことは本当は一杯あるが、政治や国は遠い存在で自分の声は届かないし、届かせようと無理な努力をする以前に身の回りの自分の問題に追われ忙しいし、といったところ。ここでの議論やメンバーの意識と一般の若い世代の意識とは大きなずれがあることに留意が必要。


<転載以上>

<この項 作成中>
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