公で考えるか、私で考えるかの違いとは

実は、先ごろ、れいわ新選組という政党での「政治による命の選別」という議論を読んでいて、故河合隼雄先生が以前文化論の6「死の変容」のあとがきともいえる「私の死」と現代を思いだしたことをきっかけに、この文化論6の解題を始めることを思いつきました。れいわ新選組での「大西つねき氏の発言」とその後の党と代表:山本太郎氏の行動などについて、ご存じでない方は、れいわ新選組の公式サイトの情報をご覧ください。

もちろん、河合先生の文化論6の解題については、先に同書を全部お読みいただくのが良いのですが、その機会のない方にもご理解いただけるようにこの「その1」では、その鍵となる部分「河合先生の同書のあとがきにあたる部分」を先ず、見ていただきたいと思いました。

記憶から、語るのは難しく、正確な河合先生の文章を確認するために図書館から同書を借りました。
先ず、以下にその部分をご紹介しますので、お読みください。全文ではなく、関連する部分を抜粋しての転載です。私が気になり、同時に是非、注目してほしいと感じた部分は、私が太字にしています。ご了承ください。同書では、太字にはなっておりません。


最初に先生は、子どもの頃の記憶や戦争体験など自分にとっての「死」への想いを語り、さらに最近になって「老い」や「死」について語られることが多くなったことを指摘され、その後で、世界的なシンポジウム(なんと30年前に語られていたことなのです)で語られた経験について書かれています。
以下、ちょっと長くなりますが、お読みください。


<現代文化論6「死の変容」:「私の死」と現代より、転載>

(前略)

1990年、アメリカのニューポートで、「死ことの難しさ(Difficulty of dying)」という主題のシンポジウムが開かれ、私もシンポジストとして参加した。

これは「死となにか」について、哲学的、宗教学的な論議をするのではなく、現代の科学技術の発展を踏まえて、極めて具体的、実際的に問題を論じようとするものであった。シンポジウムは、医者、宗教家、弁護士、に加えて、保険会社の社長、看護婦などが選ばれているところが特徴的であった。

問題の焦点は、人間はどの程度まで延命手段を用いるべきか、もし延命装置を切るとするならば、どのような条件の基にそれをなすべきか、ということであった。
このなかで、一番明確に発言できるのは、保険会社の人であった。
つまり、現代の医学において可能な限りの延命策をすべての人に行うと、先進国の経済は見る見るうちに破綻する、ということであった。詳細な数字は忘れたが、ともかくそれは予想外の価格で、延命に力を注ぐ気なら、教育費をゼロにすることを覚悟しなくては、というようなセンセーショナルな話であった。



<転載、以上>

この太字にした保険会社の社長さんの話がちょうど、政策提案としての「政治による命の選別」を意味する大西つねき氏の話と重なるように感じた部分でした。
この保険会社方の発言に対して、どのようにシンポジウムが進み、河合氏や他の参加者が発言したかが、重要なのです。以下に転載を続けます。


<同転載継続部分>

これを受けて、医者、宗教家、弁護士などがそれぞれの立場から意見を述べた。そして、結論を端的にいえば、誰も明確な結論は得られなかった、と言ってよい。このようなことをしてはならないとか、極めて危険である、というように、言わば消極的に「してはならないこと」を言うとしても、このときに延命を止めるべきである、と積極的に言うのは困難なのである。従って、いろいろな場合の考察はできるとしても、結論は歯切れの悪いものにならざるを得ない。

そのなかで、看護婦さんの話だけはちがうものだった。
彼女は、延命についての考察をするのではなく、あるひとりの患者のことを語った。

その患者は、「できる限りの延命の方策を行なってほしい」とかねがね言っていた人であった。ところが、入院してみて、実態がわかると、次のようなことを言った。
自分は延命装置がこんなものとはまったく知らなかった。そして、これまでは死を自分に敵対するものとばかり思っていたが、最近は、「死が自分の友」であることがわかってきた、と。
そして、ある夜、その人は延命装置を自らの手で切って死亡した。その人はそこに、「死は自分の友人である」という書を残していた。

この話のときは、聴衆は深く心を動かされた。私ももちろん強いインパクトを受けた。そのとき感じたことは、抽象的な議論よりも、一つの実例がどれほど説得力をもつかという、ことであった。

「私の死」は個別的でありすぎる。それは抽象的な一般的想定に従って結論を見出す方法になじまない。「私」という個別存在の奥から揺らぎ出てくるものによってしか、決定は下せない。そのとき、存在の奥底に深くかかわってくるものは、深い体験をもって語られるひとつの実例であり、一般論ではない。
それは、その例を模範にしろとか、真似をしろいうのではない。その話がわれわれの心の奥に作用を与えるのである。


このシンポジウムにおいて、私は「異文化の視点から」発言をするように求められていた。私は、次のような概要の発言をした。

ます、私は、「死」について、すべてのシンポジストが正面から誠意をもって考え、聴衆もそれと共に考えるという、この姿勢に対して尊敬の念を表明した。日本ではこんなことはまだできないであろう。(1990年の頃である)
皆さんの取り組む姿勢には感心したが、恐らくその姿勢では明確な結論がでないであろう。
まず、アメリカの人たちは、これまで「いかに生きるか」について考えることに熱心であり、それは多くの実りある結論を出してきたが、その延長線上で「いかに死ぬか」を考えている。これが先ず問題である。
次に「私の死」は極めて個別的であるのに、一般的な普遍的法則を見出して、それに従おうとしている。このことはしばらくおくとして、最初の点について考えてみたい。

日本の現代は欧米文化の影響を受けているので、簡単には言えないが、かつての日本では、特に武士たちは「いかに死ぬか」ということを大切にしていた。「美しく死ぬ」ということが、その生涯の目標であった。このような観点に立って考えるときは、延命の問題などはあまり難しくなくなるのではないだろうか。
しかし、「いかに死ぬか」を中心に据えて生涯を生きることが、必ずしもよいとは言えぬところに問題がある。ここで、私の戦時中の体験に言及し、国民がこぞって「いかに死ぬか」のみを考えることが、いかに不都合な状態を引き起こすかを述べた。[/b]

現代に生きるものにとっての課題は、いかに生きるかのみではなく、いかに死ぬかについても考え、この両立し難い観点を「私」という存在のなかで、いかに折り合いをつけて、「私」の答えを引き出すかということではないだろうか。

以上のようなことを語ったのだが、多くの聴衆が起立して拍手をしてくれた。このシンポジウムでは、めったにこんなことはない、とのことであった。

ここの簡単に示したように、当時の現代人の課題として述べたことは、今も変わっていない。ただ、「私の死」について考えねばならないと自覚する人や、それについて考え、語る人が当時に比して、急に多くなった、と言える。


<転載、以上>

この本の発行は、1997年なので、その当時の氏の感覚なのですが、それは今現在の自分の感覚でもあると思えます。

この河合先生の「私の死」への視点は、れいわ新選組で木村英子さんが、当事者の視点を語り、「政治による命の選別に戦慄した」と語られる視点と共通するものがあるように思います。
社会システムを一般論として云々する政治で「私の死」が左右される恐ろしさのようなものです。れいわ新選組の政治理念は、「誰も置き去りにしない。弱者からの視点を掲げ、政治は、その人たちに生きてもいいのだという社会を創りだすためのもの」としているようです。その意味では、大西つねき氏を受け入れがたく、結果、除籍することになったようです。


急に思い立って、河合先生の文化論を順に解題してきた今、この文化論6の「死の変容」を取り上げる気持ちになったのは、65という自分の年齢もあるかもしれません。

「全ての研究課題は、自分に向けての課題」と言い切られた河合先生の言葉が今、自分にとって「老い」や「弱者」にとっての課題に向き合うことになるような気がします。

その2では、この文化論を協働編集した、柳田国男さんの序論「自分の死をつくる時代へ」について、述べてみたいと思います。


<この項、了>
プリンタ用画面
友達に伝える
投票数:1 平均点:10.00
前
道徳への視点「文化論9 倫理と道徳」から、読む その1 河合隼雄氏のまとめの結びから鶴見俊輔氏の序文やそれぞれの論文へ:後編
カテゴリートップ
現代日本文化論全13巻(1998年刊行)から読む