<小金井市誌より転載>

小川町誌や武蔵野史によれば、江戸時代の中期小川村や西荻新田の農家は、下肥や灰などを入手するため、“やさい”や“そだ”を江戸へつけ出したと記している。馬送を通じ、そのころすでに江戸の“し尿圏”に編入されていたのであろう。いわゆる大都市の遠隔地として、若干の蔬菜が栽培されていたわけである。小川よりはるかに近距離に位置する小金井にも、当然このような現象が当時見られたはずである。
しかし、この種の記録は小金井にはまだ全く発見されていない。“古老の話を聞く会”で、明治初期、梶野新田や貫井地区の農民たちが、蔬菜・かんしょ・炭・たきぎ・麦などを天秤棒でかつぎ、または肩引きで中野から牛込付近まで売り歩いたことが語られた。
その帰途、売却した金でぬかや灰などの肥料を購入したのであった。これらの事実から見て、旧幕時代はともかく、明治時代の初期から、小金井は東京市の遠隔地として、その蔬菜圏の一部を構成していたといえる。

<転載、以上>

この「蔬菜」という小金井市誌の表現については、こちらをご覧ください。
このコンテンツでは、「野菜」として、見て頂ければよいと思います。東京市の遠隔地として、「蔬菜・かんしょ・炭・たきぎ・麦」などを栽培し、供給地となったことには間違いないようです。
さらに、この東京への運送について、小金井市誌では、以下のように述べています。


<転載部分>

小金井から、新宿までは、18.8km。その距離は必ずしも遠くはない。しかし、伝えによれば、普通夜中の2〜3時に車を引き出して、帰りは晩方となっているため、この輸送並びに販売に要した時間は15〜16時間ぐらいとなる。1日の62.5%〜66.6%の時間がこのために費やされたわけである。おそらく、この時間から考えて、この距離は当時の行商としての限度に近い距離にあたると思われる。
この売上高が「かんしょ2俵」で7〜80銭であった。当時の男一人前の日当が7銭ぐらいとわれているため、輸送費の売価に対する比率は10%前後にのぼり、輸送費からみてもほぼ、限度に近いコストである。

当時分散していた行商圏は、やがて中央市場・神田市場・新宿市場などの開設によって、市場として地域的に集中化される。同時にまた、その輸送方法は、肩引きから大八車、さらにリヤカーへと改善された。これらの変動は小金井村の蔬菜売りたちにとって、販売時間の短縮をもたらし、その位置をかつての遠隔地から、近郊地へと置き換える。この変動に対応して、その蔬菜作は本格化し、小金井村は、“郊村”へと変貌していく。

<転載、以上>

神田市場については、明治時代には開設され、明治なら、この神田まで、運ぶ必要があったかもしれません。ただ、実際には、新宿にどうような自然発生的な市場もあったと考えられています。
神田市場も江戸時代に青果市場も自然発生的に形成されたと伝えられていて、江戸八辻ヶ原(現在の神田須田町あたり)ではじまった青果市場を基として発展したようです。明治期は、明治維新による社会情勢や経済事情の急変が原因で市場が一時衰えたため、当時の東京府は、「魚鳥並青物市場及問屋仲買営業例規並税則」を公布しました。この例規は、市場の数と位置を限定するとともに問屋・仲買業者の数を制限し、その組合を結成することを命令したほか、免許料および府税を徴収するというもの。これによって東京府の許可のもとに民営の市場が開設されます。

それに比較して、新宿の市場=淀橋分場の開設は、昭和14年ともっとも遅くなります。
しかし、民間の市場にかわる取引を担う場所はあったと考えられています。なぜなら、江戸時代に江戸日本橋から数えて甲州街道に存在する最初の宿場となった内藤新宿は、江戸と近郊農村地帯を結ぶ文化的・経済的拠点として重要な役割を担うようになります。当時の大名は敷地内に畑を設け、野菜を自給自足するのが一般的だたようです。内藤藩では内藤新宿の一角に青物市場を開き、屋敷で栽培していた野菜の食べなかった分を販売しました。その後、明治にこの屋敷は接収され、政府の農業試験場や新宿御苑へと変貌しますが、既に市場として存在した風土は、民間に受けつがれ、この地域の農業栽培をささえる目的で継続されたはずだと思われます。その実態が「淀橋分場」にも受け継がれたということでしょう。
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明治以前の蔬菜栽培