【滄浪泉園】

大正期に国会議員でもあり、新聞社主でもあった波多野承五郎(雅号・古渓)によって、大正の初め、慶長年間1910年頃、現在の日野市近郊の大名主の家(約330屐砲魄榁曚靴董△離魯韻瞭擦吠盟颪箸靴萄遒蕕譟△修慮紂∋旭羚杙海寮酖膸囲困所有したものです。この項では、多摩川の河岸段丘の湧水の地「はけ」に誕生した多くの別荘の一つとして、この「滄浪泉園」の研究をしていきます。

1910年当時は、波多野氏は、朝野新聞が189(明治26)3年に廃刊した後十数年で、波多野氏は、1929年に71歳で死去しているので、50代後半から、晩年を過ごした別荘ということになります。
その当時の別荘の規模は、当初の敷地は一万坪あり、北は連雀通り、南は薬師通り、東は弁車の坂、西は新小金井街道の辺りにまで及び、現在の敷地の3倍ほどあったらしい。敷地内には200坪の池があり水車もあって道も通っていたようです。
1920年(大正9年) - 第14回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選(立憲政友会・栃木4区)し、政治家として、活躍した頃の波多野氏の別荘ということになります。氏の随筆「古渓随筆」は、ちょうどこの晩年の随筆です。
まずは、この随筆に当時の氏の周辺を調べてみます。

氏は、その「古渓随筆」の中で、日本の庭園を、

実景を縮写した縮図式の庭と、京都桂御所のような天然にあり得る形の等身式の庭に分け、等身式の庭が最近の流行と記すとともに、庭は建築の延長であると書いている。また、表門と玄関の間を庭園風に造る事については批判的で、瓢亭のように表を粗に裏を美にするのが良い

とも記しています。滄浪泉園は、このような考えのもとに、等身式で茅葺の主屋に調和する庭として造られたと想像することはできますが、はっきりとしたことは言えません。


<この項、作成中>
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その後公園となった庭園、別荘の歴史と今