トップ  >  酒雑学、備忘録  >  季節の酒・年中行事と酒  >  6月・水無月 その1:夏越しの酒(永山久夫、「酒雑学百科」より)
<酒雑学百科より、転載>

古くは6月1日より、7月末日まで、あま酒(醴)を毎日、宮中に供するならわしがあり、特に暑い日には氷で冷やして用いた。

<転載、以上>

宮中の酒造りは、「造酒司」が担当していたようです。以下にWikipediaの日本酒の歴史よりの情報を転載しておきます。

<Wikipediaより、転載>

朝廷による酒造り

【造酒司】


持統3年(689年)には飛鳥浄御原令に基づいて宮内省の造酒司(さけのつかさ / みきのつかさ 「造酒寮」とも)に酒部(さかべ)という部署が設けられた。701年(大宝元年)には大宝律令によってさらに体系化され、朝廷による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。酒部は部署の名称だけでなく、今日の杜氏(とうじ)にあたる醸造技術者をも指す。造酒司の建物は、酒を醸造する甕がならんだ酒殿(さけどの)、精米をおこなう舎である臼殿(うすどの)、麹を造るための麹室(こうじむろ)の計三宇という配置であった。造酒司で造られる酒は麹は現在の製法と同じ米から造るばら麹で、米と麹と水を甕に入れて混ぜ合わせ、醗酵期間は十日ほどの薄い酒であった。
また967年(康保4年)に成立した『延喜式』によれば、主に造られる酒質は米と麹を数回に分けて仕込む濃い味の酒になっており、後世の段仕込みの原型がすでにうかがわれる。また、小麦を使った酒、麹を多く使った甘口の酒、水で割った下級酒など、今日の麦焼酎、貴醸酒、低濃度酒の原型を想わせる製法のバラエティーが10種類ほどあった。さらに醪を酒袋に吊るして搾ったり、上澄みを採ったりという技術は、今日のものと同じといってよい。

<転載、以上>

水でなく、酒を加えて醸したものが醴酒(あまざけ)だったようです。なぜ、6月にこうした酒を醸したのでしょう。永山氏の酒雑学百科では、夏の大祓の習慣としての酒を以下のように解説しています。

<酒雑学百科より、転載>

日本の各神社では、六月と十二月の各晦日に、いっさいの穢れや禍をを除くための大祓神事を行うしきたりがあった。六月の祓いを夏越し、十二月を年越しの祓いという。この日、参拝者は茅で作った大きな輪をくぐり、夏を無事にのりきれるように祈る。また、人間はもちろん、牛や馬も海や川に入って、沐浴し、身を清めなければならない。
身体の穢れを流してから、「なごしまんじゅう」を食べる。その年新しく収穫した小麦の粉を、甘酒の酵素でふくらしたまんじゅうで、小豆あんを入れる。小豆にはビタミンB1が多いから、穀物中心の主食をたすけて、夏負け予防に効果がある。
最後の仕上げは夏越しの酒。御神酒。六月は悪疫の流行期であり、みそぎによって体の外面を清潔にし、酒で体内を清める。夏の甘酒をソフトドリンクとすれば、酒はスタミナドリンクだろう。

<転載、以上>

【茅の輪について】
六月の大祓を夏越(なごし)の大祓については、一条兼良の「公事根源(くじこんげん)」に無病息災を祈るため、茅(かや)や藁(わら)を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら、「水無月の夏越の祓いする人は千歳(ちとせ)の命のぶというなり」と唱えたことが記録されています。また、このことは「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文に見える蘇民将来(そみんしょうらい)の説話に、小さな茅の輪を腰につけることにより疫病を免れたと記されていることに由来とすると言われているようです。

やはり、夏という季節の祓いという習慣が宮中での醴酒を供するという行事につながっていったようです。もちろん、酒の醸造、農業でのこの夏の時期での行事などとも密接に関係して、こうした行事が生まれたと思われます。次の章では、六月という農家にとっての「田植え」の時期、酒蔵家にとっての六月という時期を紹介します。

<この項、了>
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