山屋半三郎の『隅田川諸白』
先ず、この酒を造ったという浅草並木町の創り酒屋の「山屋半三郎」という人物とその土地柄を調べてみましょう。
1)浅草並木町(なみきまち)とは
1911(明治44)年4月30日まで「浅草の一部」だったこの場所は、現在の地番では、台東区雷門二丁目3、11・12、18番に該当します。
当時の浅草並木町(あさくさなみきまち)は、
浅草寺雷門から駒形堂に至る通りの両側の門前町で、町奉行支配で浅草寺領年貢地でした。
「往古浅草寺境内より当町迄松桜榎等の並木西側に在之候故、並木町と唱候由申し伝に御座候」とあり、さらに
『吾妻めぐり』(1643(寛永20)年刊)には、「あさくさのこまがたどうはこれかとよ、お庭にうつり来しかたちをかげのあらそうは、れんりの枝か相生の松かとこれをうたがわれ、よしののみねのはるとてもこれにはいかでまさるらん」
とあることから、
桜並木だったと想像されます。
店としては、「大仏餅の西両国屋、隅田川諸白の山屋、泥鰌の山城屋等(「酒飯手引草」より)」があったようです。
毎年、12月7・8日には正月用の飾り物の市が立ちました。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属しました。1872(明治5)年の戸数136・人口748(府志料)でした。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区になります。
2)山屋半三郎という人物について
<作成中>
3)隅田川諸白という名酒とは
〇醸造協会雑誌2002年97巻第11号に掲載された「城下町の銘酒(その2)」加藤百一氏によると
<同雑誌より、以下に転載>
2・3隅田川諸白
江戸城下町、いわば府内の隅田川諸白は浅草並木町山屋半三郎で造られ、酒の美味なることは『山東京伝一代記』に
浅草寺の仁王尊も誕を流す、灌仏も舌打をする
と録され,また江戸ッ子の自慢であったらしく、
「誹風柳多留』からは、
有りやなしやと振って見る角田川(32篇,文化(1804〜1818)
気違水もひんよい角田川(45篇,文化)
嵯峨流の気違水も隅田川(52篇,文化)
吸筒の中も名所の角田川(54篇,文化)
など、川柳子の傑作が眼に入る。
なお、山屋家はよほど豪家だったらしく、肥前平戸藩主松浦静山は,浅草三社祭21)復興の状況に事寄せて、その様を『甲子夜話』に書き留めている。
江戸府内の開発は、1590(天正18)年徳川家康の入府以降であったが、上方と較べると遙かに後進地で、造酒屋の史実などは見られない。この原因の一つが醸造用水の不足であろう。江戸幕府開府1世紀後に上梓された『和漢三才図会』(1712(正徳2)年・寺島良安)(巻67・武蔵国・江戸府内)の条に、
譲井ノ水,桶町ニアリ,最モ冷水ニテ酒造家争イ汲ム
とあるので、造酒屋があったのは確かである。その酒屋は、かつて中世江戸の品川湊にあったという造酒屋のようであったろうと思われるが確証はない。
家康入府以来、江戸は人口の急増で飲料水の不足に配慮しなければならなかった。当時まだ井戸を掘る技術が未熟であり、そのうえ江戸は地形の関係から湧水や引き水に頼るしかなかった。そこで、家康は大久保藤五郎に命じて井の頭池から神田上水を引かせた。さ
らに,1653(承応2)年、幕命を承けた玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川羽村井堰から四谷大木戸ま
で43kmにわたって水を導き、地下配水管に配水するという大工事に成功した。こうして100万都市大江戸の府民は、神田上水、玉川上水の恩恵を蒙むることになった。
ところが、江戸の銘酒隅田川諸白は、江戸後期の雑書に
もと浅草並木町山屋半三郎隅田川の水を以て元を造ると云、酒は水によって甲乙あり。京・奈良の水清くかろし、伊丹池田の水は清くおもし、酒はなはたつよし(『偲諺集覧』)
浅草雷神門前に有り、本所中ノ郷細川備後守下屋敷の井の水を汲て製すなり(『江戸塵捨』(柳亭種彦)
とある。
つまり、江戸府内の銘酒隅田川は、府内の湧水や、神田上水や玉川上水のような引き水を酒造用水として使ったのではなく、府内の東南を流れる隅田川、または隅田川畔の井水が利用された。
したがって、文字通り「隅田川諸白」と名付けられたのだろう。
中汲はよし濁るともすみたかは貞麿(『江戸名物鹿の子』)(露月篇・享保18(1733)年)
角田川うきねの鳥も下戸ならず(『武玉川』12篇・宝暦(1751〜1763)年間)
<転載、以上>
江戸市中での評判を知るには?
この当時の市中での評判を知るには、黄表紙や浮世絵などに書かれるか、川柳、狂歌として、歌われるということがその評判の高さを測る指標となっています。
<川柳・狂歌>
川柳、狂歌での隅田川諸白は、こちらをご覧ください。
先ず、この酒を造ったという浅草並木町の創り酒屋の「山屋半三郎」という人物とその土地柄を調べてみましょう。
1)浅草並木町(なみきまち)とは
1911(明治44)年4月30日まで「浅草の一部」だったこの場所は、現在の地番では、台東区雷門二丁目3、11・12、18番に該当します。
当時の浅草並木町(あさくさなみきまち)は、
浅草寺雷門から駒形堂に至る通りの両側の門前町で、町奉行支配で浅草寺領年貢地でした。
「往古浅草寺境内より当町迄松桜榎等の並木西側に在之候故、並木町と唱候由申し伝に御座候」とあり、さらに
『吾妻めぐり』(1643(寛永20)年刊)には、「あさくさのこまがたどうはこれかとよ、お庭にうつり来しかたちをかげのあらそうは、れんりの枝か相生の松かとこれをうたがわれ、よしののみねのはるとてもこれにはいかでまさるらん」
とあることから、
桜並木だったと想像されます。
店としては、「大仏餅の西両国屋、隅田川諸白の山屋、泥鰌の山城屋等(「酒飯手引草」より)」があったようです。
毎年、12月7・8日には正月用の飾り物の市が立ちました。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属しました。1872(明治5)年の戸数136・人口748(府志料)でした。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区になります。
2)山屋半三郎という人物について
<作成中>
3)隅田川諸白という名酒とは
〇醸造協会雑誌2002年97巻第11号に掲載された「城下町の銘酒(その2)」加藤百一氏によると
<同雑誌より、以下に転載>
2・3隅田川諸白
江戸城下町、いわば府内の隅田川諸白は浅草並木町山屋半三郎で造られ、酒の美味なることは『山東京伝一代記』に
浅草寺の仁王尊も誕を流す、灌仏も舌打をする
と録され,また江戸ッ子の自慢であったらしく、
「誹風柳多留』からは、
有りやなしやと振って見る角田川(32篇,文化(1804〜1818)
気違水もひんよい角田川(45篇,文化)
嵯峨流の気違水も隅田川(52篇,文化)
吸筒の中も名所の角田川(54篇,文化)
など、川柳子の傑作が眼に入る。
なお、山屋家はよほど豪家だったらしく、肥前平戸藩主松浦静山は,浅草三社祭21)復興の状況に事寄せて、その様を『甲子夜話』に書き留めている。
江戸府内の開発は、1590(天正18)年徳川家康の入府以降であったが、上方と較べると遙かに後進地で、造酒屋の史実などは見られない。この原因の一つが醸造用水の不足であろう。江戸幕府開府1世紀後に上梓された『和漢三才図会』(1712(正徳2)年・寺島良安)(巻67・武蔵国・江戸府内)の条に、
譲井ノ水,桶町ニアリ,最モ冷水ニテ酒造家争イ汲ム
とあるので、造酒屋があったのは確かである。その酒屋は、かつて中世江戸の品川湊にあったという造酒屋のようであったろうと思われるが確証はない。
家康入府以来、江戸は人口の急増で飲料水の不足に配慮しなければならなかった。当時まだ井戸を掘る技術が未熟であり、そのうえ江戸は地形の関係から湧水や引き水に頼るしかなかった。そこで、家康は大久保藤五郎に命じて井の頭池から神田上水を引かせた。さ
らに,1653(承応2)年、幕命を承けた玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川羽村井堰から四谷大木戸ま
で43kmにわたって水を導き、地下配水管に配水するという大工事に成功した。こうして100万都市大江戸の府民は、神田上水、玉川上水の恩恵を蒙むることになった。
ところが、江戸の銘酒隅田川諸白は、江戸後期の雑書に
もと浅草並木町山屋半三郎隅田川の水を以て元を造ると云、酒は水によって甲乙あり。京・奈良の水清くかろし、伊丹池田の水は清くおもし、酒はなはたつよし(『偲諺集覧』)
浅草雷神門前に有り、本所中ノ郷細川備後守下屋敷の井の水を汲て製すなり(『江戸塵捨』(柳亭種彦)
とある。
つまり、江戸府内の銘酒隅田川は、府内の湧水や、神田上水や玉川上水のような引き水を酒造用水として使ったのではなく、府内の東南を流れる隅田川、または隅田川畔の井水が利用された。
したがって、文字通り「隅田川諸白」と名付けられたのだろう。
中汲はよし濁るともすみたかは貞麿(『江戸名物鹿の子』)(露月篇・享保18(1733)年)
角田川うきねの鳥も下戸ならず(『武玉川』12篇・宝暦(1751〜1763)年間)
<転載、以上>
江戸市中での評判を知るには?
この当時の市中での評判を知るには、黄表紙や浮世絵などに書かれるか、川柳、狂歌として、歌われるということがその評判の高さを測る指標となっています。
<川柳・狂歌>
川柳、狂歌での隅田川諸白は、こちらをご覧ください。
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